震えが治まらない小さな指で懸命に押したモノクロの鍵盤は、ただ音を鳴らすだけで、旋律を奏でることはなかった。 もっと上手くなりたい、もっと上手くなりたい。 私は、世界で一番のピアノ奏者にならなければいけないのだ。 たとえばキスをして恋をして 01 大きくなった指を真っ白な鍵盤にそっと置いた。 ポン、と音が鳴る。 幼い頃は1オクターブ高い鍵盤へ指を伸ばしても届かなかったのに、今は1オクターブ高い鍵盤まで優に届くようになった。 それに、どんな曲も弾けるようになった。バッハも、モーツァルトもシューベルトも、ショパンだって何だって弾けるようになった。 あの頃とは違う。もうあの頃の私ではない。 静かにすぅっと息を思い切り吸ってから、両手と右足に一気に重心を乗せた。 鍵盤が奏でる音はどの音楽家の曲でもない。自由に躍る指先は、まるで舞台を華麗に舞うバレリーナのように動き、3つのペダルを行き来する足は軽やかに動くジャズダンサーのようだ。そう、過去に言われた言葉をふと思い出した。 勿論、自分ではそんな自覚は微塵もなかった。ただ、懸命に目の前の鍵盤を指先で叩き、ペダルを踏んでいるだけだ。そう、自分がピアノを弾いているという事は、最早無意識の事であった。そして、弾いている間は、自分がどんな顔をしているのか、どんな体制をしているのか、最悪自分がいつ呼吸をしているのかさえ分からなかった。 私は夢中でピアノを弾いた。幼い頃からそうしていたように、無我夢中で。 こうしている時は唯一何も考えなくていい時間であった。同時に、この事しか考えなくていい時間でもあった。 だから、私はピアノを弾いた。それ以外でも、それ以上でもなかった。 最後の音は、いつも少し悲しかった。鍵盤から指先を離す事も、少しだけ、悲しかった。 それでも、私は立ち上がり、覗き込めば自分の顔がはっきりと写るほどよく磨かれた真っ黒なグランドピアノの蓋と鍵盤蓋を静かに閉じた。しかし、それは不思議と悲しくも、はたまた寂しいという思いさえも抱かなかった。 私の指先が次に触れるのは少し重みのあるドの音でも、はたまた1オクターブ上のドの音でもない。 買ったばかりの大きいキャリーケースの黒い持ち手をぎゅっと握り、私は家の重たい扉を開いた。 あの日、あの時の翼をもう一度 (もっと上手くなったら)(また、羽ばたけるだろうか) 見上げた空は雲一つなく、泣きたくなるくらい真っ青な快晴であった。そこに、一羽の白い鳥が羽を広げて羽ばたいていく。 私は、人差し指と親指で簡易な拳銃のシルエットを作り、鳥に向かってバンッと見えない弾を打ち抜いた。 12/02/21 |