自分自身を偽る人間が嫌いであった。
その偽りの心を人に向ける人はもっと嫌いであった。

――パパ!ママ!莉子ピアノ弾くよ!聞いて!

しかし、1番自分自身を偽り、その心を人に向ける人間は私自身であったのかもしれない。



たとえばキスをして恋をして 08



「クップル、美味しい?」
「にゃっ!」
「そっか、よかった」

購買で買ってきたサオトメロンパンを見たクップルがひどくキラキラとした目を向けてくるので、ご飯の時にミルクと共にそれをあげると、彼はとても美味しそうに一瞬で平らげてしまった。どうやらとても気に入ったようだ。
メロンパンは無くなってしまったにも関わらず、空になったお皿をペロペロと舐めるクップル。名残惜しそうに鳴く姿が、妙に可愛らしかった。

「そんなに気に入ったの?サオトメロンパン」
「にゃー」
「ふふっ、なんだか人間みたいだね、クップル」

好物がキャットフードではなくメロンパンであるなど、まるで人間のようだと感じた。
それだけではない、名前を呼べば返事をする所も、話をすれば相槌を打つ所も、よく慰めてくれる所も、夜は絶対に私の部屋に帰ってきてくれる所も、全てが人間のような猫であった。
しかし、それに違和感などを感じることもなかった。単に、クップルがただ、他の猫よりも人間に懐きやすい上に賢いだけであろう。それに、彼がそんな賢い猫であるがために、自分は寂しさも感じず楽しく生活出来ているのだから、それでいいのだ。
笑いながらクップルの頭に手を伸ばし、その触り心地のいい黒い毛を優しく撫でてやると、彼は大きなグリーンの瞳をこちらへ向けてきた。
絡み合った視線。何処か哀愁の漂う、何か言いたげな瞳。その瞳がぐらりと揺れたのとほぼ同時に、テーブルの上に置いてあった携帯が軽快なメロディーを奏でながら鳴り響いた。

「あ、トモちゃんからだ。…“そういえばパートナー決めの件大丈夫?あたしでよかったら相談に乗るからね!”だって。…トモちゃん優しい…!」

届いたメールを開いた携帯画面を見つめながら感動のあまり泣きべそを作る私にクップルは首を傾げた。
そして、そのまま立ち上がり、テーブルの上を歩いて私の所まで移動する。ゆらりと揺れた長い尻尾が腕に触れた。

「ねぇ、クップル。パートナー、見付かるかなぁ…」
「にゃあん」
「ん、大丈夫だよ。ありがとう」

クップルは私の腕に擦り寄りながら心配そうな声色で1回静かに鳴いた。それの声が「大丈夫」と言ってくれてるような気がして、そんな彼にお礼を述べながら柔らかな毛を再び撫でると、彼は大きな目を細めながら気持ちよさそうな表情をした。
しかし、今の私にはパートナーが決まっていないという焦燥感よりも、自分を心配してくれる友達の優しさに浸ることのほうが断然上回っていた。自分を心配してくれる友達、それはまるで、貴方はここに居てもいいのだと教えてくれる天使のような存在であった。
私はここに来て漸く、自分の居場所を見付けられそうな気がしていた。



とは言っても、その焦燥感が薄れたのはほんの一瞬の出来事であり、眠りに付く頃にはそれは再び襲ってきた。
広いベッドに横になり目を閉じても、考えるのはレコーディングテストのことばかりであった。

(一十木くん達も心配してくれてたし早く見付けなきゃ)

昼休み、食堂での出来事を思い浮かべながらごろりと寝返りを打った。
トモちゃんやハルちゃんだけでなく、一十木くんや神宮寺さん、聖川さんもパートナーが決まっていない私を心配してくれた。
ハルちゃんは一十木くんとペアを組むと言っていたし、トモちゃんも矢島くんという男の子とペアを組んで頑張っていると聞いた。神宮寺さんや聖川さんはまだ決まっていないと聞いたが、彼らならすぐに素敵な作曲家が表れるだろう。

(みんなどうやってパートナーを見付けたのかな…)

先生は、レコーディングテストや卒業オーディションの話をした時、「授業はクラスでやるが、レコーディングテストや卒業オーディションみたいな2人ペアでやるものに関してはどこのクラスの奴と組んでもいい」と言っていた。そして、「その代わり、最高のパートナーを見付けろ」ということも声を大にして言っていた。
最高のパートナーというのはどういう人のことを言うのであろうか。
歌を上手く歌える人、表現力の高い人、技術は無くても気持ちを乗せて歌える人、同い年の人、年下の人、年上の人、同じクラスの人、違うクラスの人、気が合う人、価値観の違う人、女の子、男の子。
この学園には驚くほど人が沢山いて、それは私の見知らぬ人ばかりである。話したことのある知り合いは、クラスの半分程の人や、ハルちゃん達のような違うクラスだが仲良くさせてもらっている人達だけであった。
その中から最高のパートナーを見付けるのは至難の技であった。いや、私にとっては、最高のパートナーという定義を見付けることがまず、とても難しいことなのかもしれない。

「…最高のパートナーって何だろう」

ゆっくり起き上がってぽつりと呟いた言葉は、誰もいない室内に広がる暗闇に吸い込まれていった。



気が付けばという言葉を使えば嘘になるが、ほぼ無意識に私の足は、寮の外へと出向いていた。
少し冷たい風にでもあたって頭を冷やそうとベランダに出たのはよく覚えている。しかし、そこから見えた薄暗い学園内の風景に、半ば吸い込まれるようにサンダルを履いて外へと向かっていたのだ。
誰もいない学園内は静まり返っていた。男子寮と女子寮、そして校舎を繋ぐ道には勿論人一人いない。その風景は昼間に比べて寂しいものであったが、考え事をするのには丁度いいと感じた。

私は、小さい頃からずっとピアノばかり弾いていた。
白と黒のモノクロの鍵盤を叩けば、両親は手を叩きながらとても喜んでくれたのを覚えている。
だから、私はピアノを弾いた。その事に意味も、況してや好き嫌いという感情さえも無かった。
ずっとずっと勝手に鍵盤を打ち鳴らしていた私が成長した時に残ったのは、あの時よりも少しだけ古くなったピアノだけであった。そう、私にはピアノしかなかったのだ。
それでも、この学園に入学したら、私に唯一残ったピアノという取り柄は何のスペックにもならなかった。自分のピアノのレベルなど高が知れているものであったのだ。この学園で、作曲家として勉強するにあたって、私のピアノはとてもちんけなものでしかなかった。

(落ちこぼれ、か…)

以前廊下で擦れ違った女子生徒が言っている言葉が頭を過ぎった。
“SとAクラス以外落ちこぼれよね”“あの人たち本当にデビュー出来るとか思ってんのかな”
クスクスと綺麗な顔を崩さずに笑いながら可憐な女の子達は華やかな匂いを撒き散らしながら歩いて行った。ふわりと香るフローラル系の香水の匂いが残った廊下に立ち止まるのは私だけであった。私が立っていたのは、Aクラスの廊下の前だったのだ。
黙ってぐっときつく握り締めた拳。掌には痛々しい爪の痕だけが残った。

そんな記憶まで思い出させてしまったのだから、もしかしたらこの夜の散歩は失敗だったのかもしれない。気分転換をしながらパートナー決めのことを考えるはずが、こんなネガティブな気持ちを再び沸き起こすことになるとは。
そう思った私は、くるりと踵を返し、寮に戻ろうとした。考え事をしている間に随分と寮から歩いて来てしまったらしく、女子寮が遥か遠くに見えた。
足早に歩幅を大きく取りながら足を進める。その足が、これから起こる奇跡のような出会いに向けて自ら進んでいるということなど、この時の私は気付きもしなかった。
運命は、再び私の前に転がった。

「わっ!」
「!」

ドンッとぶつかった身体。ふらつく足元。足元へ向けていた視線が、一気に空へと移り変わり、そのままスローモーションにでもしたかのようにゆっくりと身体と共に沈んでいく。
ぶつかった時の感覚も、重なった声も、あの時と、初めてこの早乙女学園で人と関わり合った時と一緒であった。
ただ、その時と違うことといえば、今が夜中であること、そして、ぶつかってよろけた私の身体はあの時のように後ろへ転がらず、そのまま立っているということだ。私の身体は、誰かの手によって引っ張られ、支えられていた。

「っ、すみません…!」
「…また、君でしたか」
「…あ、」

反射的に瞑ってしまった目を開けたその向こうには、あの時と同じ男が立っていた。
だが、その男は以前よりも髪が上手く外跳ねにセットされていた。その上私服からであろうか、以前と少し違う雰囲気を読み取ることが出来る。
そしてこの時、私は以前感じた違和感を、記憶の片隅から上手くフラッシュバックで物語を繋ぎ、1つの答えとして考え出すことが出来ていた。黒に近い外跳ねの藍色の髪、凛としてても何処か優しげな表情、柔らかい声。ここまで端正な顔をした男は中々いなかった。
そんな男を私は知っていた。薄っぺらいテレビの中で朝から元気に笑顔を浮かべる人物、音楽番組で綺麗な歌声で世間を魅了した人物、そして、ハルちゃんの部屋にあるポスターに写っている人物。そう、彼は、

「…HAYATO…?」

彼の腕に支えられながらぽつりと呟いた言葉に、一瞬にして端正な男の眉間に深い皺が刻まれた。
途端、彼は私の腕を離し、「私は一ノ瀬トキヤです」と低いトーンの声でぴしゃりと言い切った。逸らされた顔から滲み出る不快感を露にした表情に、私は少しだけ戸惑った。

「HAYATOなんて軽薄な男と一緒にしないでください」

早口で低いトーンのまま続けて告げられた言葉は深い夜の闇に吸い込まれる。
一ノ瀬トキヤと言った彼の掌は、ぐっと堅く握られていた。

「…あ…すみません」
「うんざりなんです、そういうの」

一ノ瀬さんは心底から湧き出る嫌悪感を隠しもせず、苦々しい表情で冷たく言い放った。
自分の目の前にいる男は明らかに人気アイドルのHAYATOであった。確かに、作り出される表情や出される声色は違うものである。それでも、彼は確実にHAYATOという人間と同じであるようにしか見えなかった。
脳内では彼がHAYATOにしか見えないといっているのに、彼がそれを全否定することによって、思考回路が絡まり、上手く情報を処理出来ない。しかし、絡まって動かなかったはずの頭の代わりに、私の身体は、懸命に彼に言葉を伝えようとしていた。

「でも、」

あぁ、私は何を言っているのだろう。
私は、自分の口から出た言葉に、自分自身で驚いていた。目の前にいる一ノ瀬さんも、目を丸くして声も出せないほどに驚いている。しかし、口から出たその言葉に一番驚いているのは私自身であった。
頭で考えるよりも行動が先にアクションを起こしてしまうということは、ある種の人間にとってよくある事らしい。しかし、そんなことが今までなかった人間にとって、それがどれだけ驚くべきことなのだろうか。私は今、それを身を持って体験したのである。
頭で纏まらないこの考えを、先に纏めて素直な気持ちを相手に向けたのは、私の心のほうであった。

「あなたのほうが偽りじゃないありのままの姿で、いいと思います」



潤いを。地に星に砂漠に雨を。
(貴方の瞳に潤いを、)
(そして、私の心に潤いを)





自分自身が理解出来ないまま、先にハッと我に返った私は慌てて謝ってその場を走り去った。
女子寮までの少し長い道のりを走る間、一ノ瀬さんの驚いた顔が脳裏から離れなかった。そして、さっき自分で口にした言葉も、耳から離れなかった。
走り去った私の後ろ姿が見えなくなるまで、彼が見ていたということなど、自分の不可思議な言動を頭いっぱいに疑問を詰めた私は、それを考えることに精一杯で、彼の視線に気付くはずもなかった。
そして、運命の歯車が、初めて、鈍い音をたてた。
そんな事も、私は気付かない。


12/05/11






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