学生という職業をしながらアルバイトをしている人なら共通して言えることであろうが、アルバイトが終わる時間は毎回大抵夜の11時を回ったくらいであった。
始めた当初こそ、深夜に近いその時間に夜道を帰るのは少し気が引けたが、それも年数を重ねるうちに慣れてしまった。アルバイト先の飲食店から自宅までの距離はそう遠くはないし、住宅街は家から漏れる灯りや立ち並ぶ街灯、コンビニなどの商業施設による明るい照明のおかげであまり暗くはない。それ故に、深夜ということも忘れてしまう瞬間だってある程だ。
しかし、私がこの時間に帰ることに抵抗を感じなくなったのは、そんな理由だけではない。いや、寧ろその理由はあくまで抵抗を無くすことに関する小さな理由に過ぎなかった。

「あ!お疲れ、莉子!」

飲食店の裏口のドアを開けると、ドアの横にしゃがみこんで携帯を弄っていた男が顔を上げ、嬉しそうに笑顔を浮かべた。
男はそのまま「よいしょ」と言いながら腰を上げる。その動作の間に操作途中であろう携帯をポケットの中に無造作に突っ込み、私の目の前に移動した。彼はいつものようにへらっと笑いながら小首を傾げ「帰ろ?」と言った。私は黙ってそれに頷く。
私が深夜に近い時間であるというのに夜道を歩くのに抵抗を感じない理由、それはこの男、音也くんにあった。
音也くんは以前、友人と一緒に遊んだ際に偶然知り合った同い年の男の子であった。彼はかの有名なアイドルを目指す育成所である早乙女学園に通っている、謂わばアイドルの卵だ。そのような彼が、何故か私がアルバイトの度にこのように裏口にしゃがみこんでいるのだ。

「今日はね、レコーディングテストがあったんだ。自分で言うのもなんだけど、すっげー上手くいったと思う!」

隣を歩く音也くんは街灯に照らされた赤い髪をサラリと揺らしながら私のほうを向いてニッと満足げな笑顔を浮かべた。
アルバイト先から私の家まで帰る時、彼はこのように今日あった話を心底楽しそうに話し、私に早乙女学園のことを聞かせてくれた。口下手な私はそれに小さな笑みを浮かべながら相槌を打つことしかできないが、それでも彼は楽しそうに話を繋げてくれたし、振られた話に上手く答えられなくても自ら進んで面白い方向へ持っていってくれた。音也くんとの話は尽きることもなく、沈黙を知らぬまま毎回家路へと付くことになるのだ。
音也くんがいるからこんな時間にも関わらず、私は夜道を恐ることなく帰れているし、何より彼の面白い話を聞くのはとても楽しかった。アルバイトでくたくたになった身体も、彼の笑顔を見ると疲れが吹っ飛ぶどころか、逆に元気を貰えるような感じだ。
しかし、正直彼の行動は謎だらけであった。
アルバイト先から私の家までは徒歩10分程度の短い距離だ。それなのに、何故それだけの為に毎回毎回待っていてくれるのだろうか。
気になったので以前、それを聞いてみたことがある。その時彼は「学園以外に友達が出来て嬉しいから」とはにかみながら言っていた。当時はそれを聞いて、アイドルの卵も外部との関わりを限定されてしまっているのだろうかくらいにしか思わなかったが、今思い起こせば上手くはぐらかされた気分だ。

「ねぇ、音也くん」
「ん?どうしたの?」

普段話を聞くだけの私が口を開くと、音也くんは僅かに嬉しそうな表情をした。

「前にも聞いたけど、どうしていつも待っててくれるの?」

しかし、私が続けて開いた口から出た言葉を聞くと、彼は少し焦ったような、戸惑ったようなそんな顔を見せた。綺麗に整えられた眉が困ったように八の字になる。音也くんは人差し指で頬を掻きながらいつもよりも張りのない小さな声を出した。

「夜道に女の子1人じゃ心配だからだよ。…ごめん、迷惑だった?」
「え?あ、ううん!すごく助かってる!けど、」

迷惑かけちゃってるなって思って。
消えそうなくらい小さな声でそう言うと、音也くんは先程までの不安げな表情を翻し、いつものように明るい笑顔で「俺が勝手にしてることだから気にしないで!」と声を弾ませた。
くるくると変わる表情、そして、彼の言動の真意を見抜けず、私の頭の中は疑問符ばかり浮かび上がる。だが、にこりと白い歯を見せて笑う彼の顔を見れば、その疑問符も消え去り、不思議とこちらまで自然と笑顔を浮かべてしまうのだから彼の笑顔は凄いと思う。

「あ…、もう着いちゃったね」

音也くんの声に反射的に自然と下へ向いてしまった視線を上げると、そこには自分の家があった。
あっという間の時間、そう、そのくらいアルバイト先と自宅との距離は短いのだ。

「音也くん、本当にいつもありがとう、…ごめんね」
「だから俺がしたいからしてるんだし、莉子は謝らないでよ!ね?」
「でも…」

そんな短い距離にも関わらず、毎回付き合ってくれる彼に申し訳なくなり、家の前で頭を下げると、音也くんは慌てて私の肩に手を置き、優しく声を掛けてくれた。本当に、彼はどこまでも優しい男であると感じる。そして、共に感じたのは罪悪感という気持ちであった。

「明日はバイトあるの?」

そんな私の気持ちに気付いたか否か、音也くんは明るい口調で話題を変えた。
彼と別れる際に必ず聞く話題だ。
しかし、毎回送ってもらうことの罪悪感、その積み重ねにより募る不安。そのせいでいつもなら素直に頷いてしまう私であったが、今の私の心には彼に素直に甘える余裕などなかった。

「え、えーと……明日はない、よ」

だから私は嘘を吐いた。
ぎこちなく釣りあがる口端。乾いた笑い。自分のことにも関わらず自信のなさそうな言葉。自分でも嘘を吐くのが下手だなぁ、と苦笑いしてしまうほどに私の演技は下手であった。
だが、彼はそんな私を見ても、小さく笑いながら「そっか」と頷き、それ以上問い詰めることなどしなかった。

「え、えと…じ、じゃあ、おやすみなさい!送ってくれて、ありがとう!」

このまま彼と話していれば、自ら吐いた嘘を自分自身でばらしてしまいそうだ。そう感じた私は慌てて再度頭を下げてくるりと踵を返し、自宅の鉄製の門に手を掛けた。
その時、私の足を止めたのは、後ろから聞こえた自分を呼ぶ声であった。

「あのさ、」

ゆっくりと恐る恐る後ろを振り向くと、音也くんは襟足を掻きながら視線を泳がせた。いつも明るく堂々としていて、真っ直ぐな彼からは想像も出来ない姿に思わず目を奪われる。
音也くんは一通り泳がせた視線を、今度は真っ直ぐに私に向けて口を開いた。

「さっき、君を毎回送るのは夜道を歩かせるのが心配だからって言ったけど、あれ、口実なんだ」

誰もいない夜道に響く音也くんの少し高い声。
真っ直ぐに私を捕らえる赤い瞳、街灯からの僅かな光しかないというのに、それだけでも分かるくらいに紅潮した頬。

「本当は、ちょっとでも、莉子に会いたいからだよ」

胸の鼓動がどんどん早く、彼との距離がどんどん近くなっているのに気付くのに、そう時間は掛からなかった。

「だから、明日も会いにくるね」




ロマンスは3秒、一瞬よ
(落ちるのなんて、簡単だ)




12/06/01





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