幼い頃の自分は今よりも、少し太っていた。
この世界に進もうと決意した頃の自分は今よりも、ずっとずっと歌が上手く歌えなかった。
そんな自分が許せなくて、ダイエットをした。身体は簡単に痩せたが、気を抜くとすぐにまた体重が増えた。だから、1日に必要な栄養素や必要摂取量のカロリー計算の勉強をして、自分でよく考えて食事をするようになった。油断をするとすぐに増えてしまう体重も、それによってずっと同じメモリを維持出来るようになった。
歌も物凄く練習した。ピッチやリズム感が足りなかった自分の身体に、腹に、喉に、技術を叩き込む。なかなかすぐにはよくならなかったそれも、練習を重ねることで徐々に良くなっていった。今では、ピッチもリズムも完璧に歌える上に、昔に比べて音域や技量も増え、人に褒められるくらいの歌を歌えるようになった。
許せなかった自分は、もう居なくなった。
しかし、事務所に所属しアイドルという職業をしていると、再び許せない自分に出会った。
それは、HAYATOという偽りの自分を演じながら、キャラの特性としてわざと少しピッチを外して歌う自分であった。折角作り上げた自分は認めてもらえず、作り込んだ自分は世間に認めてもらえる。そんな矛盾に、認めてもらえないありのままの自分に、許せない気持ちが生まれた。
だから、早乙女学園に入学しないか、と声を掛けていただいた時は心底嬉しかった。ここで頑張ることで、また許せない自分を消すことが出来るのではないかという期待、そして少しの自信を抱え込んで、学園生活に打ち込んだ。

「お邪魔しまーす」
「好きな所に座ってください。今楽譜を渡しますから」
「ありがと、トキヤ」

懸命に学園生活を送っているうちに、素敵なパートナーとも巡り合えた。
彼女は誰から見ても才能のある持ち主で、且つ内に秘める才能をこれでもかというくらいに表現、発揮出来る女性だった。それだけではなく、頑張り屋で、直向きで、明るく元気で、日だまりのような温かさと優しさを持ち合わせる女性であった。
そんな彼女に、いつの間にか私の心は惹かれていった。彼女を作曲家として、パートナーとしてではなく、1人の女性として好意を寄せるのは案外容易いことであった。
だが、早乙女学園は恋愛は禁止という校則を持った学校であった。だから、私は再び自分の心に嘘を吐いた。
でも、この偽りの心には、許せないという気持ちは不思議と湧かなかった。それは、この学園を卒業すれば偽らなくても済むというタイムリミットへの安心感や、単に淡い恋心を自分の心の内に秘め、ぬくぬくと育てて行きたいという初恋にも似た気持ちを感じていたのかもしれない。

「今日、一十木くんは?」

しかし、この学園へ来て、どうしても許せない自分が居ることに気が付いたのはずっと前であった。

「…音也は何処かへ出掛けて行きましたよ」
「そっか」

それは、彼、一十木音也に負ける自分である。
Sクラスの自分が、Aクラスの音也に負けるということは、一般的には考えられないことであろう。だが、自分は完璧に彼に劣っていた。
それは、歌の技量や頭の良さなどではない。私は、心が、気持ちが、人間性としての感情が、彼よりも断然に劣っていた。
音也は、私に出来ない事を難なく熟してしまう男であった。
同時に、音也は、私に無い物を全て手に入れてしまう男であった。

「……話し合い、始めましょう」
「そうだね」

音也に対して劣等感を覚えたのは、校舎の中庭で1人で楽しそうに歌う彼を見た時であった。
ピッチやリズム感はまだまだ甘かったものの、その歌は人を魅了し、楽しませる力を持っていた。心の底から気持ちを込めて歌える、彼が本能的に難なくしてしまうそれは、私が努力しても努力しても手に入れることの出来なかったものであった。

『トキヤ、あの人の事知ってる?』
『一十木音也ですよ。同室なんです』
『へぇ…一十木くんかぁ…』
『…どうかしました?』
『私、あの人の歌、すっごく好き』

自分が淡い恋心を抱いていた彼女の心が奪われる瞬間を見た時、心の底に湧く醜い感情が思わず溢れ出そうになったことが、今でも鮮明に思い出される。きつく握られた手のひらに食い込む爪の痛みなど感じないほどに、心が痛いと泣き叫んだのだ。
音也は私が手に入れることの出来なかった彼女の心までも、一瞬で手に入れてしまった。

「トキヤ、ここはもうちょっと楽しそうにっていうか、気持ちを軽くして歌って欲しいんだ」
「楽しそうに、ですか?」
「うん、明るい曲だし、トキヤが書いてくれた歌詞も結構明るめだったから…出来そう?」
「…やってみます」

楽譜と私の顔を交互に見つめながら首を傾げる彼女は、きっと私がこんな気持ちを抱いているとは知らないのだろう。いや、知らなくていいのだ。この醜い感情など、彼女に見せられるはずない。
彼女は純粋に音也の歌を気に入っていた。そう、それは純粋な気持ちなのだ。ならば、自分はもっと頑張って音也よりも気に入って貰えばいいこと。ただ、それだけの単純な話。

「ただいま…ってあれ、ごめん、話し合い中だった?」
「あ、一十木くん。お邪魔してます」
「いらっしゃい、星野。ごめん、話し合い中だったら俺席外すよ?」
「私はどっちでもいいけど…トキヤ、どうする?外してもらう?」

本心ではそう思っていないくせに、そんな言葉が心の中で呟かれた。そして、そんな自分の心の狭さに嫌気が差す。
彼なら、音也なら、こんな醜い感情を、どうするのだろうか。もしかしたら、こんな感情すら、彼には湧かないのであろうか。

「いいですよ。どうせ行く宛てももうないのでしょう」
「あっ、トキヤ酷いなー」
「ごめんね、一十木くん。静かに話し合いするから」
「ううん、大丈夫だよ。俺気にしないからさ、煩くしていいよー」

笑った音也に、彼女もまた、笑顔を浮かべた。
それから室内に音也が健在する中、話し合いは続行された。しかし、彼女は先程よりも確実にそわそわしていて、話し合いに身が入っていなかった。
彼女の視線の先は、沢山の音符やメモ書きが並べられた五線譜ではなく、机に向かう音也の後ろ姿であった。
どんなに話しても話しても、彼女の返事は上の空。そんなに見つめても見つめても、彼女の美しい瞳に映るのは私以外の、私が劣等感を抱く男。

「莉子、聞いていますか?」
「……あっ、うん!ごめん!」

私が彼のように明るく元気で真っ直ぐで、偽りなどという言葉や醜い感情とはきっと無関係な純粋な心の持ち主で、気持ちの籠った歌を歌えたのなら。誰とでも訳隔たりなく付き合えて、みんなに元気を与えられる太陽のような人物であったのなら、

「…ちゃんと、見てください」

君は私のことを、見てくれますか?




無い物ねだりの世の中
(また、彼に勝てなかった、)




12/05/04





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