まるで自分の誕生日を祝ってくれているかのように昨日、桜の花は満開を迎えた。
立派に伸びた木の枝にこれでもかというくらいに淡いピンクの花片を付け、緩やかな風にそよがれ揺れる。はらりはらりと何枚かの花片が風に乗って落ちた。
彼女は言った、「満開の桜も好きだけど、一番好きなのは落ちてくる桜の花片だ」と。
その言葉に驚いたのをとても鮮明に覚えている。
「何びっくりしてるの?」
「女の子は落ちてくる花は寂しいから嫌いっていうものだと思ってたから」
彼女は俺の言葉に困ったように眉を下げ、少し切なげに笑みを浮かべた。そういえば、華やかで綺麗でみんなに好かれていて、でもどこか儚い彼女は桜のような人だと思った。
誕生日当日、綺麗に開いた桜に試練を与え、嘲笑うかのように雨が降った。
しとしとと静かに降り注ぐ雨は、桜の花を濡らす。雨の重力に負けてしまった少量の桜の花片は、無残にも冷たく湿った地面に落ちていった。
地面から跳ねた泥で汚れた桜色の花片。彼女はこんな風に落とされてしまう花片でさえも好きだ、と言うのだろうか。
「雨なんて生憎ですねぇ…」
「一十木の誕生日は晴れるものだと思っていたのだが…」
「音也くんは太陽みたいな人ですからねぇ。僕も晴れ男だと思っていました」
今週末にあるバラエティ番組の打ち合わせを予てマサと那月の部屋に集まって話していたら、那月が窓を外を見ながらしみじみと呟いた。
那月が入れてくれた温かいアップルティーの匂いが鼻を掠める。事務所の寮の敷地内にある桜の木の花片がまた一枚、雨と共に重々しく落下した。
「あはは、仕方ないって!毎年4月11日が晴れてたらそのほうがびっくりだよ?」
「む、それもそうだな…」
「まぁ、誕生日パーティーは室内ですし天気なんて気にしないで楽しみましょう!」
那月の明るい声色に隣に座るマサがアップルティーを飲みながら柔らかい笑みを浮かべて頷いた。
今夜は仲のいいメンバーを集めて俺の誕生日パーティーを開いてくれるらしい。去年は学園に入学したばかりで誕生日を知らなかったから、その分今年は盛大に、と2人は言っていた。友達想いの級友を持ち、心はほっこりと温かくなる。今夜がとても楽しみだ。
しかし、自分の心の中にモヤモヤとした晴れない気持ちがあるのも確かであった。それが、雨のせいでも、次々と落ちていく桜の花片のせいでもないという事も、十分に理解していた。
「あっ、あのさ!」
「どうした?一十木」
「あの、今夜……誰が来てくれんの?」
彼女はパーティーに来てくれるのだろうか。
その言葉は喉の先まで出かかったが、決して口から出ることはなかった。
彼女、星野莉子は、俺の早乙女学園卒業オーディションのパートナーである作曲家だ。
優勝こそは逃してしまったが、彼女の腕は確かであり、それに目を付けた事務所が俺共々合格にしてくれ、シャイニング事務所に所属することになった。
しかし、下積みからやっている俺とは別に、彼女の才能は目まぐるしい速さで開花し、どんどん仕事を任されるようになった。今では1週間に一度会えたらいいほうであるというくらい多忙な日々を送っているようだ。
それでも星野は俺の心配までしてくれ、よくパソコンにメールをくれた。
「新しいメロディが浮かんだ」「こういうのどうかな」「一十木くん、今度曲を聞いてもらいたいんだけどいい?」
そんな些細なメールでも俺の心は浮かれ、胸が熱くなっていった。
今はなかなか会えないけど、自分がもっと頑張れば沢山一緒に仕事が出来る。彼女も今、頑張ってどんどん仕事を熟し、作曲家としての能力をぐんぐんと上げている。今は下積みの仕事ばかりでなかなか歌えないけど、頑張れば、きっと。
だから、俺もアイドルとして、歌手としての能力を上げていかなければならない。彼女に似合うアイドルになるために、そして、彼女に似合う男になるために。
「それは内緒ですよぉ、サプライズです!」
忙しい彼女は来てくれるだろうか、そんな気持ちを見透かしたのか、那月は楽しそうな満面の笑みで言い切った。これ以上詮索はさせない、というような意味深な笑みであり、彼女が来るのか来ないのかということは全く分からない。
無意識に助けを求めるように隣のマサをちらり見たが、彼もまた「夜までの我慢だ」とでもいうように微笑むだけであった。なんだかんだ、この2人には適わない。
気が付けば、アップルティーのカップは空っぽになっていた。
桜の花の命はその華やかな印象とは打って変わって、短いものであった。
開花から満開までの期間こそ1週間くらいあるのだが、満開から散り始めるのには3日くらいしかないらしい。現に満開を迎え、1日経った今日も薄いピンクの花片はひらひらと地面に落ちていく。雨や風などの天候悪化を伴うのなら、散るのもその分早いだろう。桜の花は、その大きな樹木の見た目とは裏腹に、繊細で脆いものだ。
その儚さ故に、人々は桜が好きなのだろうか。
「――くん」
そういえば、彼女は桜の花ではなく、落ちてくる桜の花片が好きだといった。
あの時は少し困ったようににこりと笑って話を逸らされてしまったのだが、その言葉の真意は何であったのだろうか。
いや、言葉の意味を知りたいだなんて、言い訳に過ぎなかった。本当は、もっと、彼女のことを、
「――木くん」
「一十木くん」
不意に覚えのある声に名前を呼ばれゆっくり瞳を持ち上げた。耳に残る甘い声、目覚めはいつもよりも格段にいいものであった。
ぼーっとする思考の回らない頭を抱えながら起き上がり、声のした方へ視線を向けると、目の前に広がるのは会いたかった彼女の心配そうな顔だった。
(……夢?)
彼女は俺と目が合うと、安心したようにふわりと笑う。嗅いだ事のあるどこか懐かしい甘い香りに、覚醒しきらない頭の奥が一瞬くらりとした。
状況を未だに掴むことができない。彼女がなんで、俺の部屋に。
「よかった、やっと起きてくれた」
「…星野…?なんで…」
「会いに来たの」
ドキン、と胸が大きく高鳴ったのが分かった。
真剣な表情で俺を見つめる彼女に、徐々に頬に熱が溜まっていくのが分かる。ドキンドキンと速くなる鼓動、手にはじんわりと汗を掻いていた。
夢のようなこの状況が夢じゃないと気付いたのは、彼女の髪に付いた桜の花弁を不意に手に取った時だった。
雨の湿気を含んで普段より湿った花弁の感触はリアルで、同時に少しだけ触れた彼女のサラサラな髪も、照れたように笑う彼女もまた、実にリアルであった。
ドクドクと駆け足で刻み、速まる鼓動を沈めるように静かに深呼吸してから、口を開いた。
「…なん、で…」
「今日はガッツポーズの日だから」
「……は?」
「ガッツポーズの日って聞いて一十木くんを思い出したの」
ぽかん、と開いた口は、まるで塞がることを知らないように中途半端に開いたまま暫く閉じようとはしなかった。
今の俺の顔はとても間抜けであろう。しかし、そんなことを構っていられないくらい、今の状況にますます付いていくことが出来ない。
もしかして、もしかしたら、と期待した自分は確かに数秒前までそこにいた。
だが、その期待は彼女の口から出た言葉で呆気なく粉々に砕かれる。自分は彼女に今日が誕生日だと一切伝えていないのだから、彼女が知らないのは十分承知していたことであったし、彼女は何も悪くないのだが、どうにも先走ってしまった気持ちだけが置いてきぼりを食らってしまったように感じた。
舞い上がった気分が一気に沈む。ドキンドキンとさっきまで高鳴っていた心臓が、ぎゅっと萎んでしまったかのように音を無くした。
「一十木くんっていつも元気でしょ?だからガッツポーズが似合うなって」
「はは、ありがとう…」
軽く笑みを浮かべながら、先程彼女の髪から取った桜の花片を指で弄んだ。
淡いピンクの薄い花片。あらゆる角度に弄び観察していると、次第に先の方は2つに分かれた形がどこかハートの形を連想させた。
5枚の花片が集まって桜の花になるのだが、その1枚1枚を見ていくとハートの形なんて少しロマンチックだな、などと考えながら花片をじっと見つめていると、彼女が「そういえば、」と口を開いた。
「桜の花片ってハートみたいだなって思ってたんだ」
今自分が考えてたことをそのまま口にした彼女に驚き、思わず目を見開いてしまう。まるで、意思が通じ合い、心までもが1つになったような錯覚さえ起こし、再び静かに鼓動が加速し始める。
それを、感じ取ったのか否か、彼女は再び「ハートみたいだなって思ってたの」と繰り返してから、次の言葉を紡いだ。
「だから桜の花片が散っていると、ハートが降ってくるみたいに見えるの。みんな幸せになれって、みんなに愛を届けているような感じに見えるんだ。……なんて、発想がメルヘンチックでちょっと恥ずかしいんだけど」
恥ずかしそうに照れて笑う彼女の頬はほんのりと赤く染まり、桜色になった。
彼女の言うように、桜の花片がハートで、それを風に乗せて人々に愛を届けるものだというのなら、彼女もまた、五線譜に音を乗せて人々に愛を届ける美しい桜みたいだ、と思った。当然、そんなことは照れくさくて言えないのだけれども。
だから、俺は笑いながら「俺にもそう見えるよ」とだけしか言えなかった。
それでも彼女は嬉しそうに微笑んでくれた。
今のように彼女が未だ俺のパートナーとしてたまに隣にいてくれて、笑ってくれる。ただそれだけの事が幸せでたまらなかった。それ以上の事は望んではいけないと思っていたし、今はこれで十分に幸せだった。
しかし、桜のように綺麗で人を惹きつける彼女は、またも俺の心を惹きつける。ハートの花片を散らして俺の周りに舞わせるように、俺を幸せにしてくれる。
ふわりと桜の香りがした、気がした。
「じゃあ、行こっか」
「え?どこに?」
「一十木くんの誕生日パーティー」
「え?なんで、」
「私はどんなに仕事が溜まっていても好きな人の誕生日を祝えないような寂しい女にはなりたくないな」
「……え?…え!?それってどういう意、」
「ほら、早く早く!みんな待ってるよ!」
「えっ、ちょっと待って!星野!」
「誕生日おめでとう!音也くん!」
俺は、手にしたままのハートをそっとポケットに仕舞い込んで彼女の後を追い掛けた。
勝利のガッツポーズ
(ぐっと握った拳に緩む頬、)
(心は甘い桜色)12/04/13