青年がゆっくりとその長い睫毛を縁どった瞼を持ち上げると、隣にあるはずの温もりが無くなっていた。トキヤはごろりと寝返りを打つ。伸ばした白い腕が触れるのは、温もりを無くしたシーツであった。
彼はこの状況を不審に思い、寝起きで回らない重たい頭を素早く回転させた。すると、彼自慢の聞こえのいい耳がカタリとした無機質な小さな音を捉える。トキヤは少し気怠い身体を起こし、まだ暗い室内を見回した。
白い壁に黒の家具を基調とした室内。灯りの消えた間接照明も、冷えきった皮のソファーも、シンプルなデザインながら凝った造型をしているお洒落なテーブルも、ベッドに沈む前に飲んだ2人分のお揃いのマグカップも、全て目を閉じる前と一緒だった。しかし、彼は唯一ベッドに入る前とは違う違和感を感じる。トキヤの瞳が見つめたのは、風に靡いて揺らめく白いレースのカーテンであった。

「ここにいたんですね」

後ろから青年の澄んだ声が聞こえて、莉子はゆっくりと振り返った。
そんな彼女の無防備な格好に晒された白い肌は月の光りによってより一層白く、寧ろ青白くさえ感じた。長い髪が夜風に靡いてサラサラと揺れる。まるで満月の日に月に帰ってしまう童話のお姫様のような、そんな美しさと儚さを彼女は持っていた。
トキヤは、彼女が消えてしまいそうな気がしてならなかった。それがどうしてだということは、彼自身分からない。消えるはずなどないと、頭では理解出来ていても、心がざわついて仕方なかった。

「そんな格好では風邪ひきますよ」

トキヤは彼女の後ろから、彼女のカーディガンを羽織らせた。彼女の晒された白い肌が隠れると、彼はひどく安心する。もしかしたら、彼女の白い肌が夜の闇に浮かぶ真っ白な月に溶かされて消えてしまうのではないかという恐怖心を無意識に抱いていたのかもしれない。

「大丈夫だよ、夏だし」
「それにその格好を誰かに見られたらどうするんです」
「もう、ここ何階だと思ってるの?」

莉子はトキヤの言葉に背を向けて答える。
ベランダの手すりに両手を乗せ、限りなく高い高層マンションの最上階から見る街は、遠くに見える繁華街の灯りだけを残し、静かに眠りに入った。周りにこれ程まで高いマンションは存在せず、増して閑静な住宅街の高台に立っているこの部屋のベランダは、下からはどこからも見ることは出来ないであろう。

「世界に、取り残されたみたい」

彼女はトキヤの部屋があまり好きではなかった。
トキヤのマンションは、彼の仕事上あまり人の目に付かず、尚且つ芸能関係者や著名人などが多く住み着くような、世間一般の壁から遠ざけた所にあった。スキャンダルなどから恐れた彼のマネージャーが用意したこの一室は、彼の多過ぎる稼ぎを嫌でも理解出来てしまうくらいの高級住宅だ。
初めてこの部屋を訪れた時は、とても感動した。一軒家かと勘違いしてしまう程の広すぎる室内、最上階から見下ろす風景、高級ホテルのようなバスルーム。どれもこれも、一般人の彼女から見れば夢のようなもので、心が躍るのを抑えきれなかった。
だが、それは長くは続かなかった。マネージャーというセキュリティにより閉じ込められた最高級のこの空間を、莉子は次第に息苦しいと感じてしまったのだ。
彼女はトキヤに言った、「隔離された部屋のようだ」と。

「でもそうしたら世界に貴方と私の2人だけですね」

トキヤは彼女の背中を後ろからそっと抱き締めてクスクスと笑う。彼の温もりを感じ、莉子は瞳を細め、僅かに表情を綻ばせた。
彼女がこの空間に嫌気を指していたということを、トキヤは知っていた。しかし、知っていても、そのことを口に出して確かめるようなことはしなかったし、この空間から彼女を解放してやることもしなかった。
彼女に「隔離」という言葉を告げられた時、トキヤはこう言った。「なら隔離された空間で、永遠に私と貴方だけの世界を作りましょう」。
彼の言葉を聞いた時、彼女は一瞬驚いたような表情をしたが、直ぐに眉を下げへにゃりと微笑んでトキヤの手をそっと握った。その微笑みは、喜んでいるようにも、その反対に、悲しんでいるようにも見えたが、トキヤは迷うことなく前者の微笑みであると自身の胸に擦り付けた。

「莉子」

トキヤは彼女の名前を愛おしそうに呼びながら抱き締め、絹のように細く真っ直ぐな髪に優しく口付けた。先程まで嗅いでいたふわりと香る彼女のシャンプーの香りがトキヤの鼻先を再び擽り、なんとも言えない甘酸っぱい感覚に、彼は胸を締め付けられる。
胸を締め付けられるその感覚を、彼は彼女を想う気持ちからなるものであると自己解決をした。だから、熱くなる目頭も、ツンと痛む鼻の奥も、締め付けられるようなこの心臓もまた、彼女が好きだからこそ感じるものであると思い込んだ。
彼女はそんな彼の気持ちに気が付いているのか否か、ぼーっと夜空を見上げるだけであった。

「今夜も月が綺麗ですね」

何も邪魔することのないまっさらな空に浮かぶ月を見上げて青年は小さく呟いた。
莉子はこの部屋へ初めて訪れた時のことを思い出す。あの時もベランダからこうやって月を見上げる彼女に向かって彼は「今夜は月が綺麗ですね」と、そして、「ここは世界で1番月が綺麗に見える場所ですよ」と言葉を紡いだ。
確かにこの街で1番の高さを誇るマンションの最上階であるこの部屋からなら月がとてもよく見えるだろう。だが、トキヤのその言葉の真意を彼女は理解しきれていなかった。いや、トキヤの心情すら、その時は少しも理解出来ていなかったのだ。

「ねぇ、トキヤ」

莉子はトキヤの長い指先に己の指先を絡めた。
彼は彼女を抱き締める力を強める。離さないよう、逃がさないよう、きつく抱き締めたその腕は、彼の心の奥底に騒めく恐怖心からくるものだろうか。
彼自身は自分の心情をこれでもかという程分かっていた。それが例え、醜い卑劣なものでも、彼女に対する感情に変わりはないということも、偽りで固める自分の唯一の本心だということも、痛いほどに分かっていた。だからこそ、彼は心中にある恐怖心に怯えたのだ。
そんな彼の震える腕を彼女は優しく抱き締めて、空に浮かぶ大きな月を見上げた。

「私、この部屋で死んでもいいよ」

青年はひどく泣きそうな表情を浮かべて、小さく微笑んだ。




なればそれもまた愛でしょう
(2人だけの世界を貴方で満たして?)




12/08/06





- ナノ -