彼女はいつも笑顔だった。
頑張り屋で、一生懸命で、前向きで、音楽に対して貪欲で。それでいて、優しくて、気遣いが出来て、どんな時も明るい笑顔を見せてくれる、そんな可愛い後輩の1人だ。
そんな彼女は僕の後輩のパートナーであった。
ブラザーエンブレムを自分達が認めた後輩に渡す為に設けられたブラザー制度によるマスターコース。そのマスターコースの先輩として、僕は任命され、3人の後輩を迎えることになった。その後輩の1人が彼女、星野莉子ちゃん。
莉子ちゃんは毎朝僕達の部屋に元気に挨拶をしにきて、そのまま4人分の朝食を作り、一緒に食べてから僕の付き人として共に行動をする。その間に僕達の曲の作曲をしていたり、パートナーである彼の曲を作曲していたり。とにかく彼女は一生懸命だった。
「ぐっもーにん、後輩ちゃん!」
「あ…おはようございます、嶺二先輩」
部屋を控え目にノックする音が聞こえて、足早にドアを開けると、いつもより元気のない作った笑顔で挨拶する彼女が目に入った。
いつも胸に抱えている五線譜の束をぎゅっと抱き締めるように握り、眉を下げへらりと笑う彼女の姿は、なんだかとても痛々しくて、僕の手は思わず彼女の華奢な肩に触れてしまいそうになった。それをなんとか止め、口を開く。「今日はおとやんもトッキーも朝早くからロケなんだ。だから朝ご飯は僕と後輩ちゃんの2人っきりだよん」と。
その途端、彼女の表情がほんの束の間にほっと和らいだ気がした。しかし、その表情はすぐに曇り、再び浮かない顔で「そうなんですね、」と小さい声で呟いた。
「…後輩ちゃ」
「私ご飯作りますね!嶺二先輩、今日はフレンチトーストなんてどうですか?」
彼女の表情が気になった僕が声をかけようとすると、莉子ちゃんは慌てて僕の傍から離れ、室内に入りぽんっと五線譜の束をソファーに置いた。
その後、休む間も無くバックの中から出された可愛らしいエプロンのリボンを背中に作りながら、彼女は空元気な声で僕に問いかける。
直向き且つ健気に頑張るその姿は、痛々しいなんてものじゃなかった。
(…喧嘩、でもしたのかな)
彼女が元気のない理由で考えられることはそれくらいしかなかった。
そういえば、昨日の夜遅くに帰ってきた彼も、珍しく少し機嫌が悪そうだったっけ。
(…罪作りな男だなぁ…)
大きく作られた背中のリボンを見つめながら、煮え切らない顔で部屋を出ていった彼の後ろ姿を思い出しながら僕は聞こえないくらい小さな溜息を吐いた。
同時に僕の脳内に過ぎった考えは、自分のものとは思えないようなものだった。
“どうせなら泣いて自分に縋ってくれればいいのに”
どうしてこんな思考をしたのか自分自身よく分からなかった。でも、僕は何故かそんな甘い考え、謂わば甘い幻想を抱いてしまったのだ。
泣いて縋られた所で自分はどうすることも出来ないし、この事は彼女と揉めた本人とで解決する事だ。後輩同士の揉め事に割って入るなんて野暮なことは絶対にしない。それに、すぐ泣くような耐久性のない子は少なからずこの業界ではやっていけない、だから無意味に手は差し伸べたりしない。僕は自分のことをそう認識していた。
それでも、弱々しい小さな彼女の背中を見ていたら、手を差し伸べてしまいたくなった。否、手を引いて奪ってしまいたくなったのだ。
「…嶺二先輩?」
彼女の少し不安げに揺れた声を聞いてハッと我に返ると、無意識に自分の手の中にはピンクの細い布が握られていた。
それを引き寄せるように自分の元へ手繰り寄せるとはらりと下に落ちるもう1本の細い布。そして、それと共に引っ張られる彼女。まるで彼女の笑顔のように作り出されたリボンは、少し手を引くだけで簡単に解けてしまった。なんだかそれが、今の彼女自身のようで、彼女も直ぐに壊れてしまいそうで、
僕は、彼女の心までも、自分のほうへ引き寄せる事が出来てしまうような錯覚にさえ囚われた。
「あっ、フレンチトーストじゃないほうがいですか?じゃあホットサンドとか、」
「莉子ちゃん」
僕の様子がおかしいことに、さすがの彼女も気付いたようで、慌てて話題を次へ次へと逸らしてくる。まるで、僕が口を開くのを恐れているような、僕に口を開かさまいとしているようなそんな必死な口振りだ。
でも、僕が彼女の名前を呼ぶと、彼女は意外にもあっさり己の口を閉じてくれた。
莉子ちゃん。もう一度彼女の名前をゆっくり呼ぶと、彼女は可愛い瞳をぐらりと揺らす。
「無理しなくていいんだよ?今は僕しかいないから、ね」
彼女はいつも笑顔だった。
頑張り屋で、一生懸命で、前向きで、音楽に対して貪欲で。それでいて、優しくて、気遣いが出来て、どんな時も明るい笑顔を見せてくれる、可愛い後輩。
そんな彼女の笑顔の理由を僕は知っていた。
知っていたんだ。
「…嶺二、先輩…」
解けたエプロンのリボンの紐を手繰り寄せるように、彼女の腕を掴まえ、自分のほうへ引き寄せる。
目の前に晒された、いつもと違う元気のない彼女を見て僕は、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
「莉子ちゃん、元気になるおまじない、お兄さんが教えてあげようか」
いつもの調子で声を発した僕を、きょとんとした不思議そうな顔で見つめる彼女。
きっと彼女は僕がおまじないをかけたら、驚き、戸惑いながらも可愛らしい笑顔で「ありがとうございます」と言うだろう。
あぁ、これが君に僕が落ちるおまじないならよかったのに。
そんな事を考えながら、か弱い後輩を自分の胸まで引き寄せて、僕はそっと額に口付けた。
「ありがとう」の資格はない
(だって僕はこんなにもずるい)12/07/29