ギリギリと少女の首に食い込むのは細いけれど骨張ったゴツゴツとした指先であった。
親指の爪以外、少し伸びた爪が莉子の首に立てられ赤い痕が付けられる。しかしそんな真新しい、初めて感じる傷跡の痛みより、徐々に薄くなっていく空気の薄さに、息苦しさに、少女は声にならない悲鳴を上げる。力なく薄く開いた唇は、何の言葉も吐き出す事もなく、ただパクパクと動くだけであった。
「…っ…ぁ…、」
「ねぇ、莉子。苦しい?」
少年は、彼女の首を締め付ける手の力を少しも弱める事もなく問いかける。
その声はひどく無機質で、あまりにも冷酷だった。
莉子はその問い掛けに、やっとの思いで首を僅かに縦に振った。苦しい、苦しいと言いたいのに、声が出せない。自分に覆いかぶさる少年を突き飛ばしたいのに、力が入らない。視界は揺らぎ、意識は朦朧としていて今にも飛びそうだ。
回らない思考回路を懸命に繋ぎ合わせて考えたのは、どうして今自分がこのような状況に至っているかということであった。
この日も莉子はいつも通り過ごしていた。
朝寮を出て、友千香や春歌と共に学校へ行き、教室で音也や真斗、那月と他愛のない話をし、合同授業で一緒になったトキヤやレンや翔と少し話をし、昼ご飯は彼を混じえたいつもの面子で食堂でランチを食べた。午後の授業もしっかりと出て、先程までピアノのアレンジの仕方のアドバイスを貰おうと春歌と真斗、そしてトキヤとレッスン室に籠っていた。
それは普段となんら変わりのない彼女の1日の過ごし方であった。
しかし、春歌と真斗にアドバイスを貰った後、トキヤに「この前君の好きな作曲家の楽譜を手に入れることが出来ました。よかったら一緒に見ませんか」と誘われて、2人が出ていった後も小1時間レッスン室に籠っているうちに、彼女の日常は大きく歪んでしまった。彼女の知らない、あっという間に。
「苦しいよね。だって莉子の首締めてるんだもん」
1人で鞄を取りに教室に戻ってきた莉子の目に入ってきたのは、莉子の前の席に座る音也の後ろ姿であった。
夕日も沈み、すっかり薄暗くなってしまった教室内に浮かぶ彼の後ろ姿は、いつも感じる彼の明るさだとか、温かさを一切感じないものであり、莉子は微かにひゅっと息を呑んだ。
彼から湧き出る恐怖心にドキドキと鳴る胸を押さえながら恐る恐る音也に近付き、莉子は「どうしたの?」と声を掛ける。すると音也は今まで聞いた事のないくらい低い声で、でもゆっくりとした口調で「待ってたんだ、君を」と言った。
音也が立ち上がり、周囲の机を音を立てて引っくり返して莉子を押し倒したのは、彼女がその言葉を聞いてすぐの出来事であった。その一瞬の出来事に、莉子はただただ驚くことしか出来なかった。背中に感じる床の冷たさと、背中に感じるジンジンとした痛み、そして全身に感じる音也の体の重み。それを彼女が感じるのに、随分と時間がかかったような気がする。
そして、次に音也が彼女にした行為は、莉子の細く真っ白な首筋に、自らの手を掛けるということだった。
「莉子、もう1回聞くよ?…トキヤのこと、好きなの?」
音也が問いかけるこの言葉を、莉子はこの数分の間に何回も聞いた。
その度に彼女は首を横に振る。しかし、音也の顔は一時も納得したようなものにはならず、寧ろその整った顔は歪んでいき、首に感じる力はどんどん強くなっていった。
だが、音也の声が震えているのを、莉子は聞き漏らさなかった。
ゆっくりと音也の瞳に自分の瞳を合わせる。暗い室内のせいか、いつも太陽のように明るく熱い真紅な双方の瞳は、不安定にぐらぐらと揺れ動き、まるで漆黒の闇に包まれてしまったかのように光を失い真っ暗なものであった。
「俺のこと、莉子は…」
譫言のようにぽつりぽつりと話す音也の視界に映るのは、苦しそうに顔を歪め、酸素が足りないせいで元々白い肌が更に青白くなってしまった少女の姿であった。
そんな少女の姿を見つめながら音也は唇を噛み締める。口内に、気分の悪い鉄の味が広がった。
「…ぉ…、っ」
おとや。
彼の瞳に映ったのは、懸命に口をパクパクと動かす莉子の薄い唇だ。その唇は、声を発することなくゆっくりと動く。音也音也。彼の名前を呼ぶ透明な声を、音也は確かに聞いた。
途端、音也は彼女の首を締めていた手をパッと取り払った。
一気に喉を通る冷たい空気に、少女は噎せ返る。整わない乱れた息を、全身で吸い込む上下する少女の肩の動きに、そしてその先に見えるしっかりと付いた赤い爪痕に、音也の目は釘付けになった。
莉子の首に付いた真っ赤な爪痕は、音也の目にはとても美しいバラの花弁のように見えていた。白い首筋に舞い散る花弁は、ゆるりとした弧を描き、莉子の首を綺麗に飾り立てる。そんな歪んだ感情を含んだ赤い瞳で、彼はじっと彼女を見つめた。
「俺の事好きじゃない莉子なんていらないよ」
「…ぉ…と、や」
「いらないんだ」
ゆっくり、誰かに言い聞かせるようなハッキリとした口調で音也は言葉を繰り返した。
莉子は、再び震える唇を開いた。しかし、そこから声が出ることは、ない。
「ねぇ、俺のこと、好きだよね?」
誰もいない校舎に、コツンコツンと廊下に響く足音が徐々にこちらに近付いてくる。
その音に気が付いた音也はこの場に似合わないくらいに、爽やかな笑みをにっこりと浮かべた。
「俺も、莉子が大好きだよ」
限界まで近付いた足音が止まった瞬間、音也は少女の唇に口付けた。
少女の唇に舌を挿し込む少年は、満足気に口角を持ち上げながら、愛おしそうに片手で少女の頬ともう片方の手でこっそり自分の親指の爪を撫でた。
破滅なんて怖くない
(これからは2人で堕ちようね)12/07/21