すっかり日の沈んだ暗い道を歩く2人の男女。
コツンコツンと鳴り響く女の少し高いヒールの音が路地に小さく響く。帰り道、男女の会話はほとんど無かった。
その理由のほとんどは、男のほうの機嫌が頗る良くなかったからであろう。女は困ったような表情を浮かべながら隣を歩く男の顔をちらりと見つめた。
女の目に映った男の表情はいつもとあまり変わらないように見えた。しかし、いつもなら相手を気遣い、楽しい会話を繰り広げる彼の口は下がった口角をしっかりと結び、開くことはなかった。それだけで、彼の機嫌があまり良くはないのだということが女には分かっていた。
だが、男の機嫌が悪い原因の半分は女にあった。それを承知しているが為に、女も易々と口を開けないままなのだ。

(…やっちゃったなぁ…)

男から視線を夜空に仰がせた女は眉を下げ、静かに息を吐いた。

事件は2人がデートしている時に起こった。
昼に待ち合わせをし、映画やショッピングを楽しんだ後、夕食を食べ、最後に通った可愛い店に入り、小物を2人で見ている時であった。笑顔で可愛らしくデコレーションされた小物を見ていると、男女の後ろに人影が表れる。そして、その人影は男女の後ろから声を掛けた。「うちのお店に似合う可愛らしいカップルですね!」と。
その言葉に女は口元を緩ませ、男はぴくりと眉を動かした。そう、男は気が付いていたのだ。この小物を扱う店に似合う可愛らしいカップルという意味を。
男にとって地雷であるその店員の言葉だけで十分不愉快だというのに、男の隣では女が必死に笑わまいと唇を噛み締めぷるぷると震えているのが見えたものだから、男の機嫌は一気に急降下してしまった。
店員を笑顔で振り撒き、上手く店内から逃げ出すように出ていった男女の末が、現在の重たい空気の原因であった。

女は再び男の顔をちらりと垣間見た。

(…でも謝っても駄目だろうなぁ…)

男の性格を熟知している女はここで謝っても、男が呆れたような顔をしながら「別にお前のせいじゃないから謝らなくていい」などと言うのが予想出来ていた。機嫌が良くないだけで、怒っている訳でもないということも理解していた。しかし、だからこそ、女は今のこの重たい雰囲気をどうにかして吹き飛ばしてしまいたいと思っていた。
しかし、中々いい考えは浮かばず、もういっそのこと冗談を言ってからかってしまおうかなどという妙な打開策を考えてしまう始末だ。女は自分の思考回路の回らなさを後悔した。
そうこう考えを巡らせているうちに、男の足が止まる。それに合わせて女も足を止め、上を見上げると、そこには女の住むマンションが立っていた。いつの間にか随分無言で歩いてしまったようだ。
だが、このまま別れるのはなんとなく居心地が悪い。そう感じているのは男も同じなようで、数十分ぶりくらいに男と女の視線が絡み合った。男は僅かに罰の悪そうな表情をする。

「なぁ、」
「ねぇ、」

お互い重たい口を開いたのは同時であった。
再び微妙な雰囲気が流れるも、それは直ぐにどちらかともなく漏れた笑い声に紛れて消える。少し時間を置いて男は女に先に話すように促した。

「ちょっと上がっていかない?お茶入れるよ」

女が笑顔のまま言葉を紡げば、男も笑顔のまま頷いた。


マンションのエントランスに足を踏み入れた男女は先程までの気まずい雰囲気など無かったかのように他愛の無い話で盛り上がった。
その雰囲気はいつも通りで、女は男の機嫌がすっかり治ったものだと思い、安堵の表情を見せた。
正直、女は男の身長を気にするところは厄介だと思っていた。男の彼からすれば、身長はとても大事なものであり、ヒールを履いた彼女と僅かしか変わらないということをひどく気にしていた。しかし、女は男を身長で選んでいる訳ではないし、他の男より身長が低い彼のことを気にしたことなど一度もなかった。身長が低くても高くても関係ない、自分は彼の人柄が、性格が、大好きなのだ。これが女の言い分であった。
しかし、そんな女の言い分を受け入れ、身長を気にしないのならば、先程まであんな雰囲気にはならなかったであろう。それ程男にとって、身長というものにコンプレックスを抱いており、それは彼女である女でさえあまり触れてはいけないデリケートな部分であることは、彼女も十分承知していた。
だから、「きっと伸びるよ」という根拠のない言葉も、「気にするな」という慰めも、女が口にすることはなかった。それならば逆に少しからかってしまったほうがいいだろうとさえ思っていた。それが、彼女にとっての最善だと判断していたからだ。

「ただいまー」
「お邪魔します」

ガチャリと鍵を開け、自宅へ足を踏み入れる。高いヒールのサンダルを脱ぎ捨てて、女は男に「上がって上がって」と声を掛ける。
ころん、と落ちたサンダルは、ヒールによりバランスを失い、男の足元へと転がった。

「お前なぁ、ちゃんと揃えて脱げよ」
「ははっ、ごめんごめん」

女のサンダルを揃えて玄関へ並べながら男は呆れたような声色で言った。だが、女はそんな男の言動も気にせずスリッパに履き替え、下駄箱のスペースから彼専用のスリッパも用意した。

「…なぁ」

男は自らが揃えた女の可愛らしいサンダルを見つめて口を開く。女はそんな男を見つめ、きょとんとした表情で「なに?」と不思議そうに首を傾げた。

「なんで女ってこんな高いヒール履くんだ?」

重い口調とも、そうでない口調とも取れる曖昧な声色で男は女に問いかけた。女は少しだけ考えたが、すぐに口を開いた。

「ヒール履いたほうが足が長く見えてスタイルが良く見えるから、かな」
「なら莉子は履かなくてもいいんじゃねぇの?スタイル悪くねーし」
「あ、やっぱヒール履くと嫌なんだー」
「…別に、そんなんじゃねーけどさ」

女がわざとからかうように明るい口調で言うと、男は女から目を逸らすようにして靴を脱ぎ、用意されていたスリッパへと履き替えた。
女は先程までの雰囲気はごめんだと言わんばかりに「同じくらいになっちゃうもんねー」などと男をからかう口調で言葉を続ける。しかし、ヒールが無くなり、少しだけ自分より目線が高くなった男の前に回り込んで立ち、彼を見上げた途端、女の表情は固まる。

「でも家に帰れば俺のほうが断然高いぜ?」

男は少し顎を持ち上げて得意げな笑みを浮かべて女を見下ろした。
満足そうに笑う男の表情に女は焦りを覚える。彼のこの手の顔を見た後、良いことが起こった試しがない。完全に男の入ってはいけないスイッチが入ってしまったということは、女には手に取るように分かってしまっていた。
しかし、まずいと思った時には、時既に遅し。あっという間に女の視界は男とその後ろにある玄関の黒いドアではなく、男とその後ろにある自分の家の白い天井になってしまっていた。負担を少なくしようと抱き締めるような形になっている為、あまり痛くはないが、どうしても走る衝撃は全てを抑えきれなかったようで女は一瞬顔を顰めた。
女は両頬の横に付いた男の少し細いが筋肉のしっかりとついた腕を視界の端に感じた。彼のサラリとした金の前髪が女の額にかかり、鼻と鼻がぶつかってしまいそうなくらいに顔が近付けられる。冷たいはずの廊下のフローリングが、やけに熱く感じた。

「それに、こうすれば身長なんて関係ねぇんだよ」

男は可愛らしい顔を、妖艶に染めてニヤリと笑う。
女は再び、やっちゃったなぁ…と静かに息を吐いた後、「翔、」と愛しの男の名前を呼んでその白い首に腕を回した。




獣は君を知っている
(その名前は小さなケダモノ)




12/06/09





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