人間は孤独な生き物だ、と誰かが言った。
人と共に過ごしても結局は一人一人心に何かしら闇を抱えていて、人はその闇を完全に共有することは出来ない。それでも人が人と一緒に寄り添って生きるのは、独りを恐れているからだ。そう、別の誰かが言った。



ゼロの確率論 07



まだ夏を向かえていないというのにむわりとした暑苦しく湿っぽい空気が身体に纏わりつく。少しでも激しい動きをしたら汗が噴出しそうだ。
高いビルの隙間から吹く風は決して涼しいものではなく、ビルから排出された熱い空気をどこかへ飛ばすような、そんなものであった。おまけに隙間風というものはなぜこんなにも威力が強いのだろうか。強い熱風が路地裏を吹き荒れる。唯一の救いはこの街には海が隣接していて、そこから逆に吹く海風がいくらか涼しいということであった。
私が落ち着いた地はカノコタウンから些か離れたヒウンシティという大きな街だった。カノコタウンとは比べ物にならないくらいの大都会に最初はとても驚いた、いや、数ヶ月経った今でも驚くべきことばかりだ。いくつも連ねるビルの街並み、目が回るくらいに立ち並ぶ建物、行き交う何人もの人間、ポケモン。聞いたところによると、全地方を巡ってもこんなに大きな街はないらしい。そのくらいヒウンシティは大きかった。
なぜそんな大きな街に私が落ち着いたかと問われても、すぐに答えることなどは出来なかった。ただ、ヒウンシティのような人の溢れる街にいれば、この人間の束に埋もれることが出来るかな、と思ったからなのかもしれない。
カノコタウンから旅立って2ヶ月余り経った。相変わらず数日に一度はチェレンやベルからライブキャスターに電話かかってくる。しかし、それに出ることは一回もなかった。溜まりに溜まった不在着信は私のライブキャスターをいっぱいにする。思えば、カノコタウンを出てからろくにライブキャスターを使っていなかった。
みんなどうしているだろう、元気にしているかな、そんな心配は山ほどあった。しかし、かかってきたライブキャスターに出るのも怖いと感じてしまうだなんて、私はどうかしているのだろう。

「あっ、すみません!」

ドンッと鈍い音を立てて人と正面からぶつかった。衝撃で抱えた紙袋の荷物が落ち中のりんごがごろごろと転がる。ぶつかった人は人混みに紛れもうどこにいるかなど分からなかった。
赤いりんごが転がっていく。毒々しいまでに鮮やかすぎる赤は灰色の街の中で1つだけ色付いたように見える。ころり、ころりと目的もなく転がっていくりんごは不意に誰かの手に拾われる。白い手に赤がよく映えた。

「はい」
「あ、ありがとうございます」

その人は私に近付いてりんごを手渡す。手元から視線を上げると、黒い帽子に淡い緑色の長い髪、そしてそれと同じ瞳が目に入った。まるで翡翠の原石のような色をした双方の瞳とぶつかる。なぜだかその瞳に光は見えなかった。
ぼーっとその人を眺めているとりんごの他に落ちてしまった物を次々と手に取り紙袋に入れていってくれている。我に返った私も慌てて物を拾い上げた。

「あの、」

全ての物を紙袋に入れてそれを持って立ち上がらせてくれたその人に再びお礼を言おうと声を発した。カノコタウンを出てから必要以外あまり声を出さなかったせいか、その声は思ったよりもずっと小さかった。
それでもその人は私の声に反応して翡翠のような瞳を揺らし私を捉えた。背が高いせいか私を見下ろす形になってしまっても全く不快な気がしないのは、その人の視線がどこか優しいからだろうか。
その瞳になぜか安心して、ありがとう、ともう一度口を開こうとした、その時だった。彼が「こっち」と言って紙袋と私の手を取ってその場から走り出したのは。

「え、ちょ、えっ!?」
「ちょっと一緒に来てもらうよ」
「えぇ!?どこに…っ」
「ごめん、急いで」

人混みをするりするりと通り抜けて彼は走る。急いで、と口では言っているが、高い靴を履いている私の歩幅にしっかりと合わせてくれているのが分かる。突然その場から連れ出され、どこに行くかも分からない出会ったばかりのその人のことを信用するとはおかしいと思う。しかし、恐怖も不快感も驚くほど全くなかった。
前を走る緑色の髪が揺れる。少し癖のあるその髪の毛を見て、トウヤを思い出した。どこか、遠い昔のことを思い出すような気がするのはなぜだろう。
身体に纏わりつくような湿った風が少し冷たい潮風に変わった。徐々に少なくなる人混み。向かう方向からして海辺へ行くようだ。

「…この辺ならいいかな」
「どう、したんですか、いきなり」

私の紙袋を持ってあんなに走ったにも関わらず彼の息は一つも乱れていなかった。周りを警戒するようにきょろきょろと見渡して話す彼とは反対に、膝に両手をつけて背中を丸めて乱れた息を整える私はとても情けなかった。
ヒウンシティにある海は大きな港として栄えていて、大きい街ならではの貿易や観光としての船が立ち並ぶ。カノコタウンにも海はあったが、何もない小さな海岸だったのでまたしても田舎と都会の差を思い知らされる。そういえば、ヒウンシティの海には海岸なんてないな、とぼんやり考えた。

「走らせて悪かったね。とりあえずあそこに座ろうか」
「は、はぁ…」

息も整わないうちに再び手を引かれてベンチに座らせられる。先程までは気付かなかったが、彼はとても早口な人だった。淡々と単調に早口に捲くし立てる喋り方はどこか聞き覚えがあった気がした。
冷たい風に乗って潮の匂いが鼻を掠める。彼の綺麗な緑色の長い髪もそれによって大きく靡いた。横から彼の顔を改めてよく見てみると、非常に整った顔をしていることに気付く。かっこいい、可愛い、それとはまた違う表現。そう、彼はとても綺麗だ。先程から時々見せるどこか儚げな表情も彼の綺麗な顔をよく引き立たせていた。

「あの、」
「名前」
「え?」
「君の名前は?」
「…リカです」
「僕はN。リカ、か。綺麗な名前だ。僕は好きだよ、リカ」
「あ、ありがとう」

彼に、Nくんに言われた自分の名前に心臓がとくんと跳ねた。以前はあんなにも呼ばれていた私の名前は、故郷を旅立ってから聞くことがとんと減ってしまっていた。Nくんは甘く優しい、けれど爽やかで透き通った声でもう一度私の名前を呟いた。

「リカはずっとこの街にいるの?」
「ううん、2ヶ月くらい前に引っ越してきたの」
「一人で?」
「……うん、一人で」

ふぅん、とNくんは呟いた。それから私のほうを向き頭の先からつま先までをじっと観察するように見つめる。不思議そうに揺れる瞳の中には幼さがまだ残っていて、本当に彼はどこか掴めないミステリアスな奥深い人間なのだと感じる。

「リカ、ポケモンは持ってないの?」
「え?…うん」
「どうして?」
「……持て、とは何回も言われてきたの。…でも、私ポケモンが傷付くのが怖い」
「……」
「私を守るために傷付くポケモンの姿なんて、もう、見たくないの」

我ながら何を言っているのだろうと頭の隅で考えた。ついさっき出会ったばかりの何も知らない彼に向かって自分の考えをぶつけるのはとても非常識だと思う。それでも私の口は止まることを知らずに動き続ける。
ここの街に来て、いや、この気持ちを人に話すのは初めてであった。ずっと心の内では考えていたのだ。それでも、人に打ち明けて話すということが私には出来なかった。とくに、家族を始め、チェレンやベル、トウヤには。
それでも彼にはベラベラと喋ってしまうのはなぜだろう。ずっと溜めていたものを一気に吐き出すかのように言葉を捲くし立てる私自身を、私は初めて見た気がした。
ようやく閉じてくれた口をもう二度と開かないようにぎゅっと下唇をきつく噛み締めながらNくんを見れば、案の定、ぽかんと口を開けて呆れたような、驚いたような表情をしている。当たり前だろう、出会ったばかりの見知らぬ女にベラベラと訳の分からないことを言われたのだから。
恥ずかしさやら申し訳なさやら複雑な気持ちが脳内を巡る。自分で巻いた種にも関わらずどうすればいいのかと戸惑って、とりあえずごめんなさいと謝り、遂には俯いてしまった私の頬に白くひやりと冷たいものがあたった。

「リカの気持ち、すごくよく分かるよ」
「…え?」
「……だから、僕は英雄になってポケモンを解放してあげなければいけないんだ」

白く繊細な手で私の頬を包み込み、そのまま持ち上げて真っ直ぐ見つめながらNくんは言った。翡翠色の双方の瞳には、あの時のトウヤと同じような冷たい青い炎が燃え滾って見えたような気がした。



無法カタルシス
(差し出されるように)
(透明な手が、私に、)





吐き出されたような一言はとても重く、まるで抑圧された感情を言葉という方法で外部に表出して、心に掛かった緊張を、不安を、自ら解消しているようにも感じた。

「リカ、また会える?」
「うん。私ヒウンシティのポケモンセンターで少し働かせてもらってるの。よかったら今度来た時顔見せてね」

Nくんは不器用に僅かににこりと微笑んだ。
そんなNくんがさっき言った一言の深い意味は理解することが出来なかったが、胸に閊えて仕方なかった。なぜそれが胸に閊えるのかも分からない。
チェレンやベル、そしてトウヤがこのNくんの言葉を聞いたら、どう思うのだろう。


11/06/05




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