カノコタウンは本当に小さな町だ。
でも人と人とが密着に絡み寄り添いあい、人を、自然を、この町を、深く深く愛している、そんな人々の真っ直ぐな姿勢が大好きだった。だから、私は大好きな人と、カノコタウンを舞う桜の花びらと共に旅立つのだ。



ゼロの確率論 06



最低限の生活用品と服などを詰めた旅行バックを片手に持ちリビングへ降りた。
コポコポと音を立てて沸くコーヒーメーカー、焼けあがったパンが一枚出来上がっているトースター、いい匂いのするキッチン。バックをリビングの隅のほうへ置いてダイニングテーブルに腰掛けると、ほんの僅かな間を置いて背後からサラダとふわふわのオムレツが乗ったプレートが出てきた。
それを「ありがとう」と言って受け取れば、次はトースターからいい具合の焦げ目を付けたトーストとストロベリージャムが出てくる。そして最後にコトンと軽やかな音を立ててグラスに注がれたオレンジジュースが出された。

「旅立ちの日なのにいつもと変わらないものでごめんね?」
「いいの、いつも通りがいいから」

私が座った向かい側の席に座った母は申し訳無さそうに眉を下げた。我ながら本当に優しく私の気持ちを理解してくれる良き母だと思う。私もいつか母という立場になりえることが出来たのなら向かいに座った母のような素敵な人になりたいと幼い頃から思っていた。
トーストにストロベリージャムを塗って角から噛り付いていく。ちらりと見たリビングにある大型テレビには星座占いが映っていた。

「お父さんもね、ビックリしてたのよ。貴女が旅に出るなんていうから」
「そっか」
「もう15歳なんだからいつそんなことを言い出してもおかしくないのにね」
「お父さん、たまに抜けてるところあるから」

あらかじめケチャップが乗せられたふわふわのオムレツにフォークを突き刺し一口食べながら答えれば、母は楽しそうにふふっと柔らかい笑みを零した。
抜けているなどと言ったが、父が私を心配してくれているのはよく分かっていた。冷たくなったあの子を抱きかかえて帰った私に驚いた顔をしたのは父だ、そしてその子を診察したのも父だった。あれから暫くして夜中にあの子を助けられなかったと悔やみ涙を零していたのを、私は一度だけ見てしまったことがあった。本当に父には心配をかけてばかりで申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
目の前に座ってにこにこと微笑みを浮かべている母もまた同じだった。私を傷つけまいと無駄な詮索は全くせず、ただただ大切に今まで育ててくれた優しい母。私はそんな父と母が大好きだ。
家を出ていくと言ったのは、半分は自分のためだがもう半分は家族のためであった。私がいると余計な心配をかけてしまう、もう私に気を使って綺麗に何重にも重なる箱に入れておくのは疲れてしまうだろう、そう思ったからだ。
そんなことを言えば父も母も私を引き止めるだろう。だから私は笑顔で旅立つのだ、私はもう大丈夫、そう言葉を残して。
朝食を綺麗に食べ終えてから席を立つ。食器を片付けにいったキッチンは母の性格を鏡に映したかのように綺麗になっていた。

「じゃあ、行くね」
「リカ。これ、お父さんから」

バックを持って玄関へ行き、ヒールの低いブーツを履く。お気に入りのサンダルは箱に入れて大事に部屋にしまっておいた。
ブーツを履き終えると、母が優しい笑みを浮かべて小さな紙袋を手渡してくる。お父さんから、と言われ不思議に思い早速中を覗いて見ればそこにはキズぐすりやどくけし、まひなおしと父らしい餞別物が入っていた。
それと共に入ってる小さなメモ用紙、そこにはキズぐすりなどの使用法、そして気をつけていってこいとの文字が几帳面に並べられてあった。父のこういうところは所謂職業病とでもいうのだろうか。そう思えば堪らなくおかしくなって思わずクスクスと笑みが漏れた。

「あと、これ」

そういって母が手渡してきたものは茶封筒だった。中を見なくても大きさや重さ、そして母の性格上から中身はすぐに理解出来た。首を横に振りながらいい、と頑なに拒み続けるも、いつもの母の柔らかいふわっとした笑顔で「旅の最初には必要不可欠なものだから」と両手にぎゅっと握らされてしまった。

「ありがとう」
「嫌になったらいつでも帰ってきていいのよ」
「そんなことしないよ」
「…ふふっ、そうね。…必要なものとかあったら連絡しなさいよ?送ってあげるから。あと、落ち着いたら、」
「大丈夫だって、そんなに心配しないで?」

笑顔で母の手を握れば「そうね、もう小さい子供じゃないんだものね、ごめんなさい」なんて笑って謝られた。
父と母から貰った餞別を小さいバックに入れてから旅行バックを手に持ち玄関のドアを開ける。目の前に広がったカノコタウンの町は眩しいくらいにキラキラと輝いて見え、まるで私の旅立ちを祝ってくれてるかのように思えた。

「いってきまーす!」

振り返って大きく手を振れば玄関先まで出てきた母はやっぱり笑顔で手を振り返してくれた。
そういえば今日の占い、何かを始めるのに吉、だなんて言っていたな。



「リカー!遅いよー!」
「…ベルでさえも今日は遅刻しなかったのに君は、」
「…でもベルを連れ出してくんの大変だったけどね」
「え、えへへー。ごめんね、トウヤ」
「別にいいけど」

待ち合わせはアララギ博士の研究所の前だった。そこに行けば既に3人とも揃っていて、どうやら私を待っていたらしい。ベルを連れ出すのが大変だったとトウヤが言うのを見る限り、ベルのお父さんとまた揉めたのだろうと簡単に察しがつく。ベルのお父さんはうちの両親に負けず劣らずの心配性だとよく2人で話していたからだ。

「リカ、随分大きい荷物だねぇ」

そんなベルが私が持つ大きな旅行バックを指差して珍しいものでも見るかのような口調で言った。途端、鋭い視線を向けてきたトウヤと目が合う。此方を見ているトウヤも、私から目を逸らすように少し下を向いたチェレンも、多分気付いているだろう。
いや、ベルもきっと気付いているのだ。それでも気付かないふりをして私に問いて試したに違いない。ベルは本当に気遣いの出来る優しい女の子だった。

「……そんな荷物持って、どこ行く気?」

キャップの鍔を持ち深く被り直しながらトウヤが低い声で言った。その声は少しだけ苛立っているようにも聞こえた。
そよそよと春風がカノコタウンを吹きぬける。それは1番道路にある桜並木からピンクの可愛らしい花びらを連れてきてくれた。ピンクの花びらは宙を華麗に舞って、そして、地面にふわりと落ちていった。
核心を突いたトウヤの言葉にいよいよ逃げられなくなって黙り込む私、そして同じように黙り込むみんな。長い沈黙が続いた。
以前から、心の片隅で決めていた。3人がこの町から旅立つ時がきたら、私も一緒に新しい一歩を踏み出そうと。家族から、カノコタウンから、過去から、そしてみんなから、旅立とうと。
「私も一緒に旅に出るよ」そうみんなには言った。でもきっと母は気付いていただろう、私が旅に出るのではなく、新しい生活の一歩への旅立ちをするのだと。気付いていて私に餞別を託したのだ。だって、あの金額は旅に出るにしては多すぎる。

「…リカ?」

ベルが不安そうに私を呼ぶ。

「リカ、」

チェレンが心配そうな口調で私を呼ぶ。

「リカ」

トウヤが、真っ直ぐ私を見て、私を、呼ぶ。

あぁ、涙なんて流したくなかったのに、私には涙を流す勇気も資格もなかったはずなのに。どうして今更、しかもこんな時に涙が出てくるのだろう。
みんなが私を呼ぶ声が大好きだった。リカ、という私の固有名詞はみんなの中に存在していて、私という人間そのものも確かにみんなの中に存在していた。それがただただ、嬉しかった。どうしようもなく嬉しかったのだ。
みんながいなくなった私の新しい世界で、私の名前を呼んでくれる人は一体どのくらいいるのだろうか。



グッバイ。私が愛した人
(町も人もみんなサヨナラ)
(コンニチハ、新しい世界と私)





11/05/24




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