ピーピーと鳴く雛鳥が親鳥を追い、そのまま誤って巣から落ちてしまうことは案外よくあることだ。
落ちてしまった雛鳥は飛ぶことも出来ず地面でバタバタと歩き回り、最悪の場合他の動物の餌食になってしまう。親鳥が助けにくる確率は、きっと、半分以下だ。



ゼロの確率論 05



逃げるように走って走って、走りまくった。何から逃げるか、それは明白に分かりきっていることだ。そして、それが逃げたってどうにもならないということも明白に分かっている。それでも、走らざるを得なかった。力一杯走らなければ、何かを全力でやっていなければ、この不安という渦に呑み込まれてしまいそうだったから。
ざあざあと止めどなく降りしきる雨が視界を悪くする。春先の雨はまだまだ冷たく、ずぶ濡れになった体や足は走りながらもガタガタと震えてまるで悲鳴を上げているようだ。
お気に入りのサンダルや服はびしょびしょ、トウヤが耳にかけてくれた髪は顔や肩にぺたりと貼りついてしまっていた。頭を濡らした雨粒が頬を伝って顎から流れ落ちていく。こんな時に限って稀に降る大雨だなんて、本当に神様というものは意地悪だとよくいうけれど、意地悪を通り越してとてつもなく空気の読める人なのかもしれない。
そろそろ体も限界がきたようで足は縺れ、息も上がりに上がって呼吸が上手く出来なくなってきた。足を止めたい、止めなきゃいけないと頭では理解しているのに足は止まることを知らずに走り続ける。もういっそのこと体が言う事を聞かなくなってしまい転げ落ちるくらいまで限界を超えて走り続けようか。
縺れた自らの足に引っかかったのは足に頭の片隅にそんなことを考えた瞬間だった。どうやら私の体は疾うに限界点を超えていたようだ。当たり前だ、普段、この小さい町でこんなに全力疾走なんてしないのだから。
ズザァッと痛々しい音と共に体は地面に滑り込んだ。転んだ時着地した体制が悪かったらしい、左足もとい、左腕、そして左の頬まで引きずってしまったみたいだ。左半身がひりひりと痛む。じんわりと視界が緩んだ気がした。
どうせならこのまま大きな声を上げて泣いてしまいたかった。離れたくない、バラバラになってしまいたくない、と。きっとこの大雨の中なら涙が頬を伝っても雨粒に紛れて分からないだろうから。しかし、涙を流す勇気すら、私にはなかった。
そう、あの時もそうだった。冷たくなってしまったあの子を抱きかかえながら、私は涙を流してあげることも出来なかったのだ。そういえば、あの日も今日みたいに大雨が降っていたな、と昔の記憶を掘り起こしそうになって慌てて首を横に振った。
私は、涙というものは二種類あると思っている。弱い者が流す涙と強い者が流す涙。でも、どちらの涙も流すのは私にとっては大きな勇気を要するもので、小さな頃から素直に涙を流すことなんて出来なかった。涙を流すほど、私は出来た人間ではないのだ。
雨は弱まることなく地に降り注ぐ。分厚い雲に覆われた空を見上げれば、まるでシャワーの如く強い雨粒が落ちてくる。あぁ、もうこのまま私を洗い流してくれたら、そして今日という日を嘘のように水に流してくれたらどんなに幸せなのだろう。明日も明後日も1年後もずっと、みんなで一緒にこの町で暮らせたら、どんなに。

「…今日はどこまで行くつもりだったの?」

突然聞こえた声は紛れもなく彼のものだった。ただ、いつもと少し違うところは、彼の話す口調が少し早口なところと少し息が上がっているところだろうか。
いつも通り迎えに来てくれたトウヤ。だから、私もいつも通りすぐに彼のほうを向かなかった。今日は、今は、トウヤのほうを向くのが少し怖い、そんな言い訳をいつも通りというずるい言葉に隠して。

「…ずっと遠くまで」
「遠くって?」
「ずっとずっと、どこか遠く」
「……ふーん」

トウヤはつまらなそうに呟いた後、私の隣へ腰を下ろした。肩膝を立てその上に肘を置いて頬杖をつく。未だ密かに上下に揺れている肩を、乱れた息を、誤魔化すかのようにトウヤは一つ大きな溜息を吐いた。
私がカノコタウンから出歩いたのも、トウヤが迎えに来てくれて溜息を漏らすのも、全て一緒なのに。それなのにどうして気持ちは前と一緒ではないのだろう。どうして、ずっと一緒でいられないのだろう。

「…リカ」

ポツリ、とトウヤは私の名を呼んだ。
私を呼ぶその声が大好きで、わざと返事をしなかった。そうすれば、君はきっともう一度、私の名前を呼んでくれるから。

「リカ」

トウヤだけではない。チェレンの声もベルの声も大好きだ。
時に優しく時に厳しく、笑い声や怒った声、時々泣き声まじりの時もあった。そんな聞きなれた大好きな彼らに名前を呼ばれると自分の存在意義を証明されている気がしていた。私の居場所はここだ、そう唱えられている気がしていた。そう、私は彼らがいないと弱い弱い人間なのだ。
返事をしない私だが、彼はそれを知りえた上で話を進める。もうトウヤの呼吸は整っていた。

「俺はみんなでずっと一緒にいたい」

小さく深呼吸してからトウヤが話し出す。ゆっくりゆっくり、言葉を選ぶように喋るところはいつもの彼らしくなかった。

「そんなこと、子供の戯言だって分かってる」

分かってるんだ、彼は小さくもう一度呟いた。
私だって、分かっている。いや、多分みんな分かっているのだ。だから、刻々と迫り来るタイムリミットに心を弾ませる反面恐怖心を抱くことになってしまった。
所詮永遠なんて、あさはかな夢だ。

「…ねぇ、リカ」

もう一度、トウヤが私の名前を呼ぶ。
その声が先程とは明らかに違うもので、トウヤの部屋をベルと出たとき以来初めて彼のほうを向けば、真っ直ぐ此方を見据えた真剣に茶色の瞳とぶつかった。

「俺と一緒に来てよ」

茶色の瞳の中にぐらぐらと揺れる冷たい青い炎のようなものが見えた、気がした。
リカ。ポツリと再び彼が私を呼ぶ。いつの間に空から零れ落ちる雨はポツリポツリと呟かれた言葉と同じように疎らになり、分厚い灰色の雲の隙間から少しだけ光が漏れていた。



大人になれない子供
(大人への階段は目の前にあるのに)
(それさえも気付かないふり、)





足も腕も頬までも傷だらけになった私を背負ってカノコタウンまで帰ってくれたトウヤの背中にぎゅっと抱き付きながらこの道が永遠に続けばいいなんて思ってしまった私の脳内は、戯言という言葉では済まされないくらいの幼く拙い考えしか詰まっていないのだろう。
それでも頭のどこかでは、旅立ちというカウントダウンはカノコタウンへの道のりよりもうんと短いということも知っていた。そんな私は子供にしては大人びていて、大人にしてはまだまだ子供っぽいというとても曖昧な境界線の上に立っているのかもしれない。


11/05/22




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