幼い頃の話だが、遠いどこかの地方で空を飛ぶピカチュウが発見されたと聞いたことがある。
それが一体どういうものなのか、そしてそれが本当のことなのかは幼い自分には判断し切れなかったが、それを聞いて羽がないピカチュウでも空を飛ぶことが出来るのだから羽があるものはいつか全て飛ぶことが出来るだろうと確信した。



ゼロの確率論 04



物心付いた頃からずっと一緒にいた所謂幼馴染というものが俺には3人いた。とにかく頭が良くて常に冷静さを忘れない眼鏡、ほわほわとした印象を受ける少しドジなベル、そして本当は素直で真っ直ぐなのに意地っぱりなせいで上手く表現出来ない不器用なリカ。
俺らはずっと4人で一緒にいた。だから、こんな時間が大人になってもずっとずっと続くと思っていた。少し前までは。

俺らの歯車がガチャリと不気味な音を立てて外れてしまったのは数年前、…いや、濁さなくても今でも嫌になるくらいハッキリと覚えている。あれは5年前の出来事だった。
10歳になれば俺らはポケモンを所持する権利が持てるようになるのは言うまでもないことだ。ある日、俺らは初めてのポケモンを各々プレゼントされた。その時、俺を含め、リカもすごく嬉しそうな表情をしていたのをよく覚えている。
俺らは毎日のように集まってポケモンと一緒に遊んだり、時にはバトルをしたり、そんな風に平穏に日々を過ごしていた。ここから遠く離れた地方では10歳でポケモンを所持していれば直ぐにでも旅に出れるらしいが、生憎イッシュ地方では法により15歳以下の一人旅が禁止されている。だから、15歳になったらみんなで一緒に旅に出ようって、その為に今のうちに鍛えようって、そんな子供ながらの拙い約束をして。
しかし、事件は起こってしまったのだ。それは俺らの平穏な日々に毒々しいまでの刃を立て粉々に切り裂いていった。残されたのは、抱えきれない程の悲しみと後悔、そして悲痛に叫ぶトラウマであった。


「アララギ博士から旅に出てポケモン図鑑を完成させる手伝いをして欲しいって言われたんだ」
「…へぇ」
「勿論、君やベル、そしてリカもその手伝いに入ってる」

自分でも空気に亀裂が入ったのが分かった。先程、チェレンが話があると言った時よりももっと深く重い亀裂であった。
しかし、それに気が付かないフリをしてライブキャスターを弄る。カチカチカチと室内に広がるボタンの音は、自分でも腹立たしいくらいに鳴り響いていたのだから、俺に話しかけているチェレンからすればより一層不愉快なものに違いない。案の定、俺の青いライブキャスターはすぐに視界に急に入ってきた水色の袖から出る白い手に奪われていってしまった。
空っぽになった掌を暫く眺めてから、ライブキャスターを奪っていったその方へと視線を向ける。視線の先のチェレンは俺のライブキャスターを床に丁寧に置きながらも、苛立ちに眉を吊り上げ、いつもの癖で眼鏡を人差し指でクイッと持ち上げた。

「…僕は、リカはここに残るべきだと思う」

言われる言葉は分かっていた。多分、チェレンは5年前のあの出来事があって以来、ずっと頭のどこかでこの事を考えていたのだろう。冷静で少し冷たい印象を受ける時もある彼が、彼女には常に優しかった。彼女をこれ以上傷付けまいと懸命に守ってた。それ故の決断であるということは、聞くまでもなくすぐに分かってしまう事実であった。

「…なんだよ、それ」
「リカに旅をさせるのはすごく重い負担をかけることになると思う。旅をするならポケモンを所持してバトルに勝ち抜いていかなければいけない。バトルをすれば、必ずしもポケモンは傷付くし、最初のうちは瀕死にもなることもある。それはつまり、」
「1人で残らせんの?俺らはみんな旅に出んのに」
「リカは旅に出ないで夢を追い求めた方がいいと思う、リカのためにも」

無意識に拳を握る手に力が入るのが分かった。
チェレンがリカのためを思って言っているのは十分すぎるほどに分かっている。彼はとても優しい心の持ち主の上に、とても冷静に客観的に物事を考えられる。昔から彼は間違ったこと、曲がったことをしない教科書のような真っ直ぐな人間であった。しかし、今回ばかりは、いや、彼女のことに関しては、俺だって引くことは出来ない。

「ポケモンドクターになるためにも旅には出た方がいいと思うけど、俺は」
「トウヤ、君はまたリカが傷付いてもいいというのかい?旅に出て、荒波に呑まれて、ボロボロになるなんて見え透いたことなのに、それなのに旅に出ろなんていうのかい?」
「リカはそんなに弱い人間じゃない」
「僕だってそれは分かってる、でも、」
「俺はリカをここに1人置いて出てったりしない、絶対」

チェレンの目の色が変わった、と思った。いつまでも聞かない俺に苛立ったのか、それとも俺の発言に苛立ったのか、それは後者だということは分かりきっていることだけれども。
昔からチェレンとは思考経路が合わなかった。幼馴染だし、一緒にいて楽しい上に気を使わないので非常に楽なのは事実だ。しかし、一歩口論という道に入るとコイツとは全く話が合わなかった。
自分の考えが子供だということは前から薄々感づいていたのだ。だから、冷静な大人な意見を言うチェレンとは反りが合わない。俺がもう少し、心の底から冷静に、客観的に、そして感情的にならずに思考を纏めることが出来たのならチェレンとはよく理解し合える関係になれたのだろうか。

「…トウヤ、君の言っていることはまるで自分がリカを離したくないって言っているように僕には聞こえるんだけど」
「そうだけど、悪い?」

意地っ張りで不器用なのは彼女ではなく俺のほうだった。
チェレンの考えが間違っていないということは頭では痛いほどに理解しているのに、心がどうもついていかない。チェレンの指摘通り、俺はリカを1人置いていくのが可愛そうだとか、嫌だとか、そんなに彼女を思って発言するほど大人でもなかったし、そこまで余裕もなかった。ただ、ずっとみんなで一緒にいたい、彼女も含めてみんなで。彼女が輪から外れてしまうというのが心底嫌なのだ。
我ながらそのような考えは子供っぽいと分かっている。それでも嫌だったのだ、この関係が崩れてしまうのだ。これ以上歯車が狂って、いずれは止まってしまいそうなこの危い関係が崩壊するのを見るのが。

「だからそれは君のエゴだって言ってるんだ!」
「お前の考えも十分エゴだと思うよ」

チェレンの荒げた声が耳に大きく反響する。彼のこのような態度は本当に久しぶりに見た。彼がここまで怒る理由も、全部、分かっていた。
そう、全部全部、分かっているのだ。でも、分かっているからこそ、それに従いたくないのだ。従ってしまえば、そこで全てが終わってしまうのが目に見えていたから。

「トウヤ、だから言ってるだろ、僕は」
「うるさい。リカは俺が連れて行く」

その瞬間、バタバタバタと慌しく階段を駆け下りる音がした。誰の足音か、なんて、分かっていた。
チェレンは深い深い溜息を吐き、室内にはリカのピンクのライブキャスターからこの重苦しい雰囲気にそぐわない程に明るいメロディーが鳴り響いた。



鳥になりたかった少女の話
(片翼しかない彼女の手をとって)
(大空へ飛ぶことが出来るのなら、)





ピンクのライブキャスターを持って外へ飛び出すと、目に飛び込んできたのは眩しいほどに咲いたオレンジ。そしてその下で今にも泣き出しそうな表情で笑顔を作る少女。

「…なんで、止めてくんなかったの」

低く呟きながら通り過ぎた際に香った花の匂いの中に、微かに彼女の甘い匂いが残っていた。
今にも崩れそうになりながらも懸命に保っているこの関係をぐらぐらと押して不安定なものにするのはいつも俺だった。羽を持つものはみんな飛べると口ではいい事を言って、みんなの翼の羽を残酷なまでに毟り取って飛べないように仕向けるのも全て俺だった。
そんなことすら、分かっているのに、止められなくて、ごめん。


11/05/16




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