入り組まれたカラクリを造る際、最後の螺子を填めるのはとても困難なことである、とどこかで聞いたことがある。 それでもカラクリ師は今日もその螺子を填めるために、中にいくつもの歯車を噛み合わせている。出来上がったカラクリを動かすことだけを楽しみにして。 しかし、彼らはしらないのだ。それがすぐに純粋な子供によって崩されてしまうということに。 ゼロの確率論 03 遠くで音楽がなる音がした。 この音を何回聞いただろう。綺麗な音を奏でて流れるメロディー、それはトウヤの家のリビングから流れる時計の音であった。長針が頂点へと回り着く度にカチリと小さな音が鳴り、メロディーと共に小さな人形たちが表へ飛び出して軽快にダンスを舞う。そんな可愛らしい時計はトウヤの母の趣味だ、と前にトウヤが少し恥ずかしそうに言っていたのをよく覚えている。 「あ、私もう帰るね!」 音楽が鳴り終わる頃にベルが傍に置いていた緑のベレー帽を被りながら言った。トウヤの部屋にあるデジタル時計には「18:01」という時刻が刻まれており、ふと見上げた窓越しの空は雨のせいもあり真っ暗であることから私もベルと一緒に帰ることを告げる。 「チェレンも一緒に帰る?」 「いや、僕はもうちょっといる」 「そう?なんか珍しいね」 「…ちょっと、トウヤに話があるから」 チェレンがクイッと眼鏡のフレームを人差し指で持ち上げながらトウヤのほうを見た。それに気が付いたトウヤは伏せていた目を上げ少し睨むようにチェレンを見返す。一瞬空気がピシッと震えて亀裂が入ったような錯覚を起こした。 その雰囲気に耐えられなかったのか、ベルは慌てて立ち上がり私の腕を掴んで半ば無理矢理立ち起こした。ほわほわとした癒しのオーラを纏った彼女はこう見えて人一倍感情の変化に敏感で、ここぞという時は空気を察することが出来る子だ。前にチェレンも言っていた。「ベルはいつもへらへらしているように見えるけど、僕らの中で一番深く物事を考えているんだよ」と。ただ、「少し感情的過ぎるところもあるけどね」とも言っていたけど。 私も本当にそう思うし、それがベルのいいところだと思っている。優しい彼女だから、人の気持ちを察して、人の立場にたって物事を考えられるのだ。たとえ、時折少し感情的になりすぎてしまったとしても。 「リカ、ほら、帰ろ?」 柔らかい笑みを浮かべながら首を傾げた彼女の足はもう部屋のドアへと向かっていて、拒むことなんて出来なかった。「おじゃましましたぁー!」なんて空元気な言葉を吐き捨てて、私たちはもう逃げるようにトウヤの部屋から慌てて飛び出した。 階段を慌てて駆け下りるものだから風を切ったベルの髪からいい香りが漂い鼻を掠める。彼女はいつも、花束のような香りをしていた。それがなんの花束なのか、などは花に疎い私には分かるはずもなかったが、とにかくベルはベルらしい優しい香りも身に纏っていたのだ。 優しくて可愛くて素直で気が利いて、私はそんなベルに昔から憧れていた。同じ女の子なのにどうしてこうも違うのだろうか。時々そんなベルを見て自己嫌悪に陥ることもある。でもそんなことを言えば優しいベルは泣きそうなくらい悲しそうな顔をしながら「そんなことないよ」と言ってくれるだろう、ということを安易に想像出来てしまうので、言わなかった。いや、言えなかったのだ。 トウヤの家を慌てて出たところでベルが傘を開く。可愛らしい花柄模様のオレンジの傘はまるでベルの笑顔のように明るかった。 今日はどうしてこんなにも眩しいものとぶつかるのだろう。今までにだって何回も見たことのあるものなのに、空が暗く涙を流しているだけで、見ているものの感性までも変えてしまうなんて。 「ベル、あの二人どうし…」 「へへっ、やっぱり男の子は男の子にしか分からない話、あるよね」 よくわかんないけど!なんて明るい口調とは裏腹に、ベルのその顔はいつもの柔らかい笑顔ではなく困ったように眉を下げへらへらとした失笑じみたものを浮かべていて、そんな複雑な表情のまま私に傘を傾けた。 ベルの装いの笑顔を見てしまった私の心が再びバクバクと音を立てる。本日二回目のこの心臓の奏でる不安という名の不協和音は、どんどんと私の体を侵食していく。しかし、今はこの不安の泥沼にずぶずぶと填まって落ちていく私を引っ張り上げてくれる人はいない。 「あのね、リカ」 「なに?」 「私ね、ずっとリカと一緒にいたい。リカと一緒に歩きたいな」 「…ベル?」 「…えへへっ、ごめんね、なんか急に言いたくなっちゃった」 相変わらず、眉を下げ困ったような笑みを浮かべてベルは可愛らしく小首を傾げて傘を持っていないほうの手で首元を触った。ベルの傘に入れて貰いながら数メートルの距離を戻る。 途中、跳ね返った雨が再び私の足元を濡らす。しかし、ベルのオレンジ色のタイツは一つの跳ね返りもなくとても綺麗で、彼女の髪と同じ色の鮮やかな黄色のパンプスもまた、綺麗なままだった。 「あ、」 「どうしたの?」 「ごめん、私ライブキャスター忘れてきちゃった!ごめんね、ベル!私は大丈夫だから先帰ってて!」 「あっ!待ってリカ!」 傘から飛び出るとベルが慌てて腕を掴んで制止の声を出した。思いの他強く掴まれた腕。その白くか細い腕のどこにそんな力があるのか、そんなことを思わせるくらいギリギリと力強く掴まれている。驚いてベルの顔を見ると、焦っているような、それでいて泣きそうな表情をしていた。 どうしてそんなに必死な顔をするのか、すぐに分かった。同時に、ベルはあの二人が話している内容を理解しているということも。 「大丈夫、だから、ね?」 掴まれた腕に添えられたベルの細腕をやんわりと掴んで離させる。ベルの綺麗な淡い緑の瞳は不安げにぐらぐらと揺れ動き、下に向かって下ろされた指先は彼女の肩から下げられたバックのショルダー部分へと向かって、そのままぎゅっと握られた。 ベルが俯いたおかげでようやく逸らされた視線をいいことにトウヤの家へと走る。バシャバシャと大きく跳ね上がる雨は私の脹脛まで濡らしていった。 大丈夫、きっとまだ大丈夫。 根拠のないその言葉は、まるで自分自身を安心させる呪文のようだった。その呪文を何回も何回も心の中で唱えながらトウヤの部屋のドアに手をかける。ドアノブは驚くくらいに冷たい。 「だからそれは君のエゴだって言ってるんだ!」 「お前の考えも十分エゴだと思うよ」 ひんやりとしたドアノブが徐々に掌に馴染んできて、それを回そうとした瞬間だった。 中から聞こえてきた大きな声はあまりにも刺々しくて、そんな二人の声を私は生まれてきて初めて聞いた。手にじんわりと変な汗をかく。嫌だ、聞きたくない。我侭だということは承知の上だ。それでも、私は、ずっとみんなと、 「…トウヤ、だから言ってるだろ、僕は」 「うるさい。リカは俺が連れて行く」 本当は分かっていた。 最近どうしてトウヤが切なげな表情を浮かべるのかも、どうしてチェレンが前より考え事をするようになってのかも、どうしてベルが装った笑顔を浮かべるのかも、全部分かっていたのだ。 その場から、そしてその現実から逃げ出すように駆け下りたトウヤの家の階段はいつもよりも短い気がした。 カチリと填まった崩壊の合図 (あとは崩れていくのを待つだけ、)(なんて滑稽すぎて泣けてくる) トウヤの家の玄関を開けるとそこには傘を差したベルが泣きそうな顔をして立っていた。 そんな彼女からも逃げ出すように横を駆け抜ければ、あの優しい花束の匂いがまた、心地よく鼻を掠めた。 11/05/12 |