小さい頃の記憶というものは案外曖昧で、でも何故かその時の一部だけというピンポイントな場面のみ強烈に記憶にこびり付くものである。
大人になっても強烈に脳内の記憶にあって離れない記憶というものは、果たしてずっと覚えていたいような良い記憶なのか、それとも忘れたくても忘れられない悪い記憶なのか。



ゼロの確率論 11



いつも記憶の隅にあるのは、小さい頃の思い出。彼らと過ごした楽しい日々の思い出だ。
しかし、物心ついた頃からずっと一緒にいるというのに、その頃の記憶というのは非常に曖昧で全部をはっきりと覚えているわけではない。それが年齢低下に伴う記憶なら尚更だ。
それでも覚えている記憶があるのなら、きっとそれは忘れられない記憶なのだろう。実際、私が覚えているあの記憶もこの記憶も全部、忘れられない記憶なのだから。


記憶の中で私は一面に広がった花畑、基、野原のような広い敷地にいた。黄色い帽子を被り水色のスモックを着て、肩から黄色い鞄を下げているのだから幼稚園に通っていた頃だろう。年齢は忘れてしまった。
見渡すそこにはずっと奥まで広がる緑色の草原。足元には沢山のシロツメクサなどが咲き乱れている。少し離れたところにある花壇のようなものにはもう大きく花弁を開いてしまった色とりどりのチューリップがあった。
私はそこに膝を付き懸命に四つ葉のクローバーを探す。幸運の四つ葉のクローバーの話をこの頃どこかで聞いたのだろう。ベルもチェレンもトウヤも遠く離れたところで各々同じように膝を付いてクローバーを物色していたように見えた。
しかし、いくら探しても四つ葉のクローバーは見付からない。いつの間にかベル達はシロツメクサの白い花のほうに関心が移ったようで、その花を摘んで編み込んで輪っか状にしていた。

「ここにはないんだよ、きっと」

その声と共に見上げれば目の前にトウヤが立っていた。トウヤの黄色い帽子と徐々に沈んでいく太陽による夕焼けのコントラストがとても綺麗だ。どうやら、随分長い間自分は四つ葉のクローバーを探していたらしい。

「…でも…」
「オレがあとでみつけてあげるからかえろ?」
「……うん」

記憶の中のトウヤは今よりもずっとずっと幼い声で私を慰めた。今の私ならそれを上手く受け入れられるが、この頃の私はそれが出来なかったらしい。
座り込んだまま唇を軽く噛み締めて俯いていると、私の頭を包む黄色い帽子が何者かによって取られてしまった。ぽとりと落ちた帽子。それと同時に頭に帽子よりも軽いものが乗せられた。

「うんっ、すっごくかわいい!リカすごくにあってるよ!」

帽子の鍔により半分くらいを占めていた視界にある黄色が無くなった瞬間、目の前にはもっと明るい黄色が飛び込んできた。明るいけど優しいベルの髪の毛と、ベル本人の花が咲いたような眩しい笑顔だ。
彼女の言葉に不思議に思い、頭に手を伸ばせばそこにはシロツメクサで出来た花冠。花を沢山使ったとても手の込んだものだった。
未だに似合うだとか、可愛いとか言うベルに照れて笑っているとチェレンに腕を取られた。

「ぼくもまたさがしてみるよ」

そういってチェレンは私の手首にシロツメクサのブレスレットを付けた。
ベルに教えてもらったのだろう、まだ慣れないような手付きで作られたそれはベルの作ったものよりも多少不格好ではあったが、さすが元々手先が器用な彼の作ったものである、とても丁寧に作られたブレスレットだった。
みんなの優しさに嬉しくなった私はにこりと笑う。すると、今度は反対側の腕を引かれ、立ち上がらされた。

「ぜったいオレがみつけるから」

キリッと強い眼差しを向けて立ち上がらせてきたのはトウヤだった。
彼は私の手を取ると薬指にシロツメクサを一本結んだだけの輪っかを嵌めた。今思えば、ベルやチェレンが花冠などを作っている時も、私のために四つ葉のクローバーを見付けてくれていた彼には、それを作る暇がなかったのだろう。それでも私を慰めるために即座に指輪を作ってくれたトウヤはとても優しい男の子だ。小さい手に嵌められたそれは、私にとって大きな大きな指輪であった。

「うんっ!」

頭にはベルの花冠、腕にはチェレンのブレスレット、指にはトウヤの指輪。みんなの優しさに触れた私はその日上機嫌で家に帰った。
落ちた黄色い帽子は野原に忘れたままにして、というのは笑ってしまうような後日談だ。


私はその場面を鮮明に覚えているというのに、なぜあの時そんなに懸命に四つ葉のクローバーを探していたのかは全く思い出せなかった。
幼稚園に通っている幼い私は一体どのような幸運を手に入れたかったのだろう。あの時幸運の四つ葉のクローバーを手に入れてれば、その後、何かが変わっていたのだろうか。

「リカー!お待たせー!」

セントラルエリアに響く明るい声。聞き間違えるはずはない、これは彼女の声だ。

「ベル」
「久しぶりだねぇ。もう、リカ連絡しても全然出てくれないんだもん!」
「あはは、ごめんごめん」

ベルはいつ見ても明るく、でも優しいほんわかとしたイメージを纏った可愛い女の子であった。花のように明るい笑顔は昔のまま、時々香るベルの花のようないい匂いも昔のままだった。
私はそれを見てひどく安心する。彼女は自分の知っている彼女だ、昔となんら変わりない彼女のままだ、と。
いつかチェレンの口から聞いた“エゴ”という言葉。自ら変わろうと飛び出したのに、彼女たちには1ミリ足りとも変わって欲しくないなんて望む私のほうが、十分なエゴイストだった。そう言えば、昔の彼ならきっと眉を下げて溜息を付くだろう。私の知っている彼なら、だ。

「でも元気そうでよかった。あっ、これね、アララギ博士からリカにって」

今回、彼女と会ったのは母から私のライブキャスターに連絡が入ったからだ。アララギ博士がリカに渡したいものがあるらしいからベルちゃんにお使いを頼んだ、そう言った母の口調はどことなく不安げであった。
垣間見えた不安は、私が家を出てから家や友達からの連絡を断っているどころか、あんなに仲がよかった幼馴染と一切連絡していないことからか、それとも。

「…なんで、私に」
「アララギ博士ね、本当はリカにもポケモン図鑑のお手伝いして欲しかったんだって」
「……でも私は、」
「分かってる。分かってるよ、リカ。だからね、リカはこれを持ってるだけでいいの」

アララギ博士からといって渡されたものはピンクの掌より少し大きいサイズの機械。そう、ポケモン図鑑であった。
しかし、私はベル達のように旅のしないのだから、ポケモン図鑑を増やすことは出来ない。つまり、持っていても意味がないのだ。
私が持っていても何の役にも立たない。それならば私より有能な子にこのポケモン図鑑を譲るべきだ。そう考え、手渡された袋に入ったポケモン図鑑をベルに返そうとするとベルは私から顔を逸らし、「あとね、」と言いながら何やら鞄の中をゴソゴソをあさっている。返そうと伸びた私の腕は伸びたままだ。

「これあげる!クローバーじゃなくてごめんね?」

にこっと笑った彼女の手に握られていたのはラッピングされた一輪の花であった。
小さいけれど凛と咲き誇るその花は彼女によく似ていて、私は思わず伸ばしていた手を下げて、その花を受け取った。



美しき鈴蘭、そして
(美しき少女の笑顔)
(それは何年越しの約束)





「この前シッポウシティの図書館に行ったら花言葉の辞典があったんだ。鈴蘭の花言葉は“幸福の再来”なんだって。クローバーよりぴったりだね、リカ」

こてんと小さく首を傾げて明るい笑顔を浮かべるベル。
彼女もまた、覚えていたのだ、あの日のことを。では、私があの時懸命にクローバーを探してまで何の幸福を願っていたのかも、もしかしたら彼女は覚えているのだろうか。
そう、喉まで出かけた疑問の言葉を飲み込んだ。今は記憶の中の彼女とリンクしたその笑顔を見て揺らぐ視界から雫が溢れ落ちないよう、私もベルに負けないくらいの笑顔を浮かべて返すので精一杯だった。


11/10/17




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