欲望というものはひどく身勝手なもので、その欲を唱えるために必ずといっていい程、何かしらの犠牲を伴う。
犠牲となったモノは勝手をした人物を心の底から怨みながらも、かけられた毒牙に苦しみ悶えるのだ。その先、そのモノが息を吹き返す可能性はどのくらいあるのだろうかなんて、きっと誰も知り得ない。



ゼロの確率論 09



機械的な音と共に急ぎ足でポケモンセンターへ入ってきたのは一人の青年だ。スマートな背格好、黒い帽子から出る翡翠の色をした柔らかそうな長い髪。見覚えのある人物に受付から出て駆け寄ると、それはやはりこの間の青年であった。

「Nくん?」
「リカ、この子達をすぐに治療してくれる?」
「えっ、あ、うん!」

Nくんから渡されたのは3つのモンスターボール。元気なポケモンはモンスターボールの中に入っているとカタカタと動き回るのだが、ぴくりとも動かないボールに少し嫌な予感がして慌てて受付の中へ戻り、ジョーイさんにボールを渡した。
ボールから出てきたポケモンはとても傷付いてはいたが、どれも急所は外されていて瀕死の手前の状態であった。ボールを手渡したジョーイさんは「大丈夫よ」と優しく微笑んだ。

「Nくん、みんな大丈夫だって。回復までちょっと待っててね」
「うん、ありがとう」

ジョーイさんに言われたことをロビーのソファーに座って待つ彼に言えば、Nくんは安心したようにふわりと笑った。私はそれに少しだけ拍子抜けをする。以前会った時の印象で、彼は上手く笑えない青年とばかり思っていたのだが、案外そうでもないようだ。柔らかく微笑んだNくんはとても綺麗だった。
ざわざわと賑わうポケモンセンターのロビーに黙ったままの私とNくんの姿が浮く。ソファーに座ったままのNくんに、その前に立つ私。その距離感や空間に徐々に耐えられなくなって目を泳がせながら淡いピンク色の制服を包む白いエプロンを無意識にぎゅっと握っていた。
しかし、そんな握られた手は座っているNくんにはよく見えていたようで、気が付けばその手は彼の手に優しく握られていた。

「少し話をしようか、リカ」

優しく包み込むように握られた手を引かれ、彼の隣に座らされる。思えばこの前も手を引かれて座らされたな、なんて思い出した。
以前も見た隣というポジションから眺めるNくんの横顔は今日もとても綺麗で、思わず見惚れてしまう程だった。透き通るように白い肌に飾り付けられたすらりと伸びた鼻、少しだけ色素の薄い唇、美しい緑色の瞳を包む長い睫毛。隣に座る青年は女である私なんかよりもずっとずっと儚く美しく綺麗で、女として以前に隣に腰掛けることすら恥ずかしく思えてきた。
恥ずかしいという感情が湧き上がった今、私の頬には除々に熱が溜まっていく。久々に熱くなった頬に頭がくらくらとした。
それに気付いてかは分からないが、Nくんは握っていた手をさりげなくそっと離した。ひんやりとした彼の手が離された瞬間、それと同じようにひんやりとした感覚が心の片隅を過ぎ去った気がした。握るものがなくなった掌は、一瞬寂しげに宙を舞うも、すぐに自らの膝の上に降り立ち再びぎゅっと強く握られる。

「リカ、本当にここで働いてたんだね」
「嘘だと思ったの?」

笑いながら問いかければNくんは一瞬僅かに驚いたような表情をしたが、すぐにふるふると首を横に振った。
彼が言った言葉の原因は恐らく、以前会った時、私が私服姿だったからだろう。決して派手な格好ではないが、到底ポケモンセンターで働いているというようには見えなかったのも当たり前だ。先日、両親にそのことについて連絡を入れた時もとても驚かれたし、何より私自身、未だ自分がポケモンセンターで働かせてもらっていると実感が湧かないくらいなのだから。
ポケモンセンターで働かせてもらっていると言ったが、正式に言えば、ポケモンセンターでジョーイさんと同じ制服を着て、受付や看護補助の仕事をしているだけであった。医療免許のない自分には治療の判断は到底出来ない。しかし、医療の勉強をしながらジョーイさんのお手伝いをさせてもらっているのだ。
カノコタウンからみんなと別れて旅立ってから、自分には何が出来るのだろうと考えた。ポケモンが傷付くのが嫌だし、まず自分のポケモンを一匹も所持していない時点でポケモントレーナーになるのは難しい。自分の頭の中では出来ればポケモンと共存しつつ、助けることが出来る仕事がしたいと思っていた。そして、思い浮かんだのがこの仕事であった。
正直、トレーナーが運んでくる度に傷付いたポケモンを見るのはとても胸が痛む。しかし、それ以上にそのポケモンが元気になる姿を見るのが、そして元気になったポケモンを見て喜ぶトレーナーの笑顔を見ることが大好きで仕方ないのだ。我ながらこの仕事は自分の性に合っているのではないか、と思っている。

「制服、よく似合うよ」

Nくんはとても素直で純粋に思ったことをそのまま述べる人なんだと思う。冷めた頬が、心が、再び熱くなっていくのが自分でも分かった。



「…この間言ったこと、覚えてるかい?」

この前言ったこと、それが何かと言うことはすぐに理解出来た。
いつの間にか伏せていた瞳を持ち上げNくんを見つめれば、彼は私の表情から理解出来たということを読み取ったのか再びゆっくりと口を開く。案の定その形のいい色素の薄い唇からは「話を進めるね」という確認の言葉が述べられた。

「僕はポケモンを解放するという使命を与えられた。勿論、僕もポケモンたちを解放してあげたいと思っている」
「解、放…」
「リカはモンスターボールに閉じ込められたポケモンが本当に幸せに思っていると思う?」
「え、えっと…」
「……僕はずっと疑問に思っているよ。尤も、ポケモンたちを解放させるために僕もトレーナーとして一部のポケモンをモンスターボールの中に閉じ込めている人間の一人に過ぎないのだろうけど」

私を真っ直ぐに見据えていたNくんがふっとその翡翠色の瞳を伏せた。長い睫が不安げに小さく震えている。
正直、彼の言っていることの返答をすぐに返すことはとても難しかった。
解放、使命、幸せ、疑問、閉じ込める。
その並べられた言葉は今まで私が生きてきた中で、なかなか正面から向き合うことのなかった言葉だったのかもしれない。言葉の羅列を脳内でぐるぐると廻らせながら何か言わなければ、と口を開く。しかし、開かれた私の口からは小さな呼吸音以外、何も出てこなかった。

「リカちゃん」

ふと、名前を呼ばれた。凛とした、強く働く女性の声だった。
慌ててジョーイさんがいる受付へ向かうと、3つのモンスターボールが手渡される。カタカタと元気に小刻みに動くモンスターボールは、言わずとも彼のものである。「お願いね」と優しく微笑まれながら手渡されたそれを見ると、何の問題もなく元気に回復したようだ。
その中で一番元気に揺れるモンスターボールにコツンと指先で触れれば、心なしか嬉しそうに中にいるポケモンが笑ったような気がした。無性に心が温かくなり、よかったね、と小さく声をかけてあげると、視界の隅で少し離れたところにいるNくんが慌てたように立ち上がったのが見えた。
優しいNくんのことだから余程ポケモンが心配であったのであろう、そう思い足早にNくんのところに近付くと、Nくんも座っていたソファーからスタスタと早歩きで近付いてくる。お互いの距離が縮まると、そのまま、思いっきり両肩を掴まれた。
神妙な面持ちでじっと見つめられる。深く被られた帽子の下から出る長めの前髪から覗く緑色の瞳は困惑したようにゆらゆらと揺れていた。

「え、Nくん?ポケモンは大丈夫だよ、みんな元」
「キミはポケモンの声が聞こえるのかい?」
「え?」
「やっぱりキミは特別だ。キミは僕と同じ人間なんだ」

Nくんの口調が早口になる。一見、いつもと同じ冷静な彼であるけれど、内心はとても興奮しているというのがひしひしと伝わってくる。それは、私が返事をしていないにも関わらず、結果を取り決めてしまったことからも伺えるだろう。
しかし、やっぱり私には彼の言っている言葉の意味が殆ど理解することが出来なかった。
特別、同じ人間。
それは先程彼が言っていた言葉と何か関連があるのだろうか。いや、きっと深く関連する言葉だろう。
Nくんは私の両肩を掴んでいた手を下ろす。そして、私の両手をぎゅっと、強く、それでいて優しく包み込むように握った。

「リカ、キミに協力してほしい」



ありふれた犠牲の名前
(彼は理想を手に入れる代わりに)
(大きな犠牲を取り払った)





カランカランカラン。
手に持っていた3つのモンスターボールがロビーに敷き詰められたタイルの床に落ちて無機質な音を響かせた。


11/07/23




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