静まり返った校内に鳴り響くチャイムの音。大きく開いた窓の外から聞こえる人の声。廊下から差し込む悔しいくらいに綺麗なオレンジの光。
全部全部今の私の心を焦らせるには充分すぎるもので、出来ることならそれらをすべてシャットダウンして目の前の物に集中したい。そんな事を頭の片隅に置いてペンを握った手は一向に動く気配を見せず、白い紙は未だ白いままだった。
見渡せば、広々と広がる教室。いつも笑い声やら話し声で賑やか過ぎるほど明るい空気に包まれた教室は、誰もいないとここまで広いものなのかと思わず疑問に思ってしまうくらいに広かった。
野球部が金属バットでボールを打つ聞いているこっちまでもがスカッとする音が響く。それを追うように聞こえる歓声がやたら遠くに聞こえ、なぜか分からないけれど、無性に寂しくなった。
なぜ自分がここに一人でいるのかというと、それは3時間前の出来事に火種がある。
先日行った数学のテストの点数がすこぶる悪さを見せ付けてくれたのだ。このままの成績では大変だぞ、とハチク先生に言われた時にチラッと見たトウヤの呆れたような瞳はきっとずっと忘れないだろう。
放課後職員室に呼び出された挙句、個人的な課題を出されてから早1時間。それでも私の目の前にある問題がずらずらと書かれたプリントの解答欄は真っ白だった。
分かる、分からない以前にやる気がない。まずはそこが問題だ。
代わりにとでもいうようにハチク先生から返されたテストの裏面に文字がいくつもいくつも書き連ねられる。真っ白なテストの裏面はもうすぐ黒で埋め尽くされようとしていた。
うーん、と両手を上に上げて伸びをする。ついでに顎を少し持ち上げて天井を仰げば、上を向いた額にぺしっと軽い衝動が走った。
「…まだやってんの?」
「……うるさいなぁ」
「…勉強、教えてやろうと思ったけどやめた」
「あー!ごめんなさいごめんなさい!教えてくださいトウヤ様!」
先程入ってきたであろう開けっ放しのドアのほうへ踵を返すトウヤの腰に抱きついて必死に引き止める。振り返って私を見るトウヤの瞳はやっぱり少し呆れたような視線を放っていた。
それでも私の腕を振りほどいて、私が座る前の席の椅子の背もたれに腕を乗せるように腰を下ろしてくれるトウヤは結局優しかった。そう、彼はなんだかんだいいつつ昔から優しい人間なのだ。
そんな彼に密かに想いを寄せること、十数年。ずっとずっと好きで、ずっとずっとトウヤだけを見ていて。それでも今の幼馴染という生ぬるい関係が妙に心地よくて、それを壊すことも出来ない私は臆病者以外の何にもないだろう。
「…人の顔、ジロジロ見てないでさっさとペン動かしなよ」
でも、臆病者なのは私だけど、私を臆病者にしているのはトウヤなのではないかと思う。
「あー!終わった終わった!」
ハチク先生に課題のプリントを提出した私は晴れ晴れとした笑顔で教室に戻ってきた。なにせ褒められて帰されたのだ。もう喜ぶ以外の感情なんて無に等しい。
そんなルンルン気分な私にトウヤは「誰のおかげだと思ってんの?」なんていう氷水の如く冷たい言葉を浴びせて、少し怯む私を見てフンと鼻で笑った。
「…トウヤ様のおかげです」
「うん、そうだよね」
「はい」
「ありがとは?」
机に頬杖を突きながら私を軽く見上げて放った言葉の重さはきっと私にしか分からないのではないか。ずしりと圧し掛かる言葉に思わず文句の一つや二つ口から飛び出てしまいそうになったけど、それを必死に喉の奥にしまってお礼の言葉を搾り出した。
しかし、礼を言えば「うん」と返事をしながらにこりと笑った彼を見て、文句などはどこかに吹き飛んでしまった。本当に、この男には心底か敵わない。
内心ドキドキと高鳴る胸の鼓動を抑えるために慌ててカバンの中に荷物を詰め込む。その時白い紙がカバンから床に向けて空気に上手く乗っかってひらひらと落ちていった。
同時にトウヤの長い腕が伸びる。これは駄目だ。これだけは見られてはいけないのだ。
「あ!駄目!!」
伸びたトウヤの指先がぴくりと小さく動いてからストップした。
私が突然大きな声で制止をしたからか、少し不満そうに眉を寄せたトウヤがこちらを見つめて「…なに?」と呟く。昔からの仲だから言えるが、彼は意外と顔に出るタイプなのですぐに感情が分かってしまう。不機嫌な時は特に、だ。
それでも彼にそのテストを見られるわけにはいかないので普段は見せ無いような機敏な動きで床に落ちたテストを回収する。落ちた面が、テスト用紙の裏面を背にしていたのがせめてもの救いだ。
「…あ、はは、恥ずかしいからさ!点数!」
「…8点だろ。最初から知ってるし」
「え!?あ、うん!えっと…!」
「なに、俺に隠し事?」
身体を起こしたトウヤが腕を組んで見つめてくる。これはいけない、彼は心の底から不機嫌そうだった。
こういう時の彼には何を言っても通じ無いということもよく知っている。妙に勘のいい彼には嘘はすぐにバレてしまうので、いつも本当のことを言わざるを得ないのだ。
目の前には逃がさないとでも言うようなオーラを放つトウヤ。こんな状況から上手く抜け出す術なんて、私が持っているはずがなかった。
「…テストの裏にちょっと夢とか書いてあって…」
「ふーん、夢か…」
「だから誰にも見られたくなかったの」
「…ねぇ、リカ、知ってる?夢を書いた紙で紙飛行機を作って外に飛ばすと叶うんだって」
「え!ホントに!?」
「うん、ホント。俺実際叶ったし」
「え、嘘!わ、私もする!」
いつも私の行動に呆れたりすることの多いトウヤだったからこんなアドバイスを貰えるなんて思ってなかった私は声を弾ませながら握り締めたテスト用紙で紙飛行機を作り始めた。
トウヤは一体どんな願いを書いた紙飛行機を飛ばしたんだろう。トウヤの夢ってなんだろう。もう叶ったっていってたけど、どういうことかな。
トウヤのことばかりを考えながら作った紙飛行機は、久々に作るせいもあってひどく不恰好なものだった。折り目などがビシッとしていない上に少し縒れた紙飛行機は、まるで私のようだった。
「リカは相変わらず手先も不器用だね」
「…ほっといて」
紙飛行機を手に持ち、窓際に移動する。元々空いていた窓から顔を出せば思いのほかそよそよと心地のいい風が吹いており、明るかった空は僅かにオレンジ色に変わろうと綺麗なグラデーションを作り上げていた。
私の隣にトウヤが並び、窓から顔を出す。ちらりと私のほうを見る横顔は、いつもの如くキリッとしていて、かっこよくて、私の手から紙飛行機を旅立たせるのを後押しするには充分すぎるほどだった。
腕を後ろに引いてから勢いよく前へ突き出す。窓の外から飛び立った紙飛行機は、よれよれだったから決して真っ直ぐは飛ばなかったけれど、ちゃんと一人で風に乗ってくれた。
綺麗なオレンジ色に染まっていく広い空の中、私の紙飛行機は真っ白で。そんな紙飛行機の行方を私とトウヤは並んでずっと見ていた。
想いの詰まった紙飛行機
(彼との一歩踏み出したい)
(この願い神様まで届け!)徐々にゆらゆらと揺れ落ちていく白い紙飛行機。あぁ、私の夢、届くかな。
しんみりと降下していく飛行機を見つめていると、隣にいるトウヤが突然大きく身を乗り出した。
「チェレーン!その飛行機拾っといて!今行くから!」
「え!?チェレン!?」
私が校庭にいるチェレンの姿を発見するのとほぼ同時にトウヤは教室から走り去って行った。まずいまずいまずい!トウヤより早くチェレンの元へ行かなければ!
トウヤを呼ぶ私の声と、トウヤの笑い声。二人の声が響いたオレンジ色の廊下を走る私は、さっきの紙飛行機みたいによろよろとしていたけれど、真っ直ぐ真っ直ぐ彼に向かって飛ぶなかなか有能な飛行機だった。
11/04/06