風呂上り




・現パロ社会人




「文次郎っ!まだ試合始まってないよな?」

どたばた騒がしい足音と共に、廊下の先から叫ぶ声が聞こえる。17時50分。テレビ画面はニュース番組締めの天気予報を映している。

「まだだ」と返事を寄越してやれば、遠くから安心の溜め息が続いた。


明日は夕立の恐れがあるらしい。後で留三郎の鞄に折り畳み傘を忍ばせておこう。




週の半ば。その日は近場へ出張で、直帰して良いとの許可を貰い、早々に帰宅できることになった。そのことを留三郎に伝えると、“俺も今日は早めにあがる”とだけ連絡が届く。この歳になって、ちゃんと仕事をしてこいなど野暮なことは言わない。

珍しく共に早めに帰宅できるとわかり、気が緩んだのは無意識だ。


“わかった”とだけ返信して顔をあげたとき、部下の田村が驚いた表情で此方を見ていた。どうしたのかと尋ねると、「先輩が仕事中に穏やかに笑っているところを初めて目撃しました」と、彼は真顔で答える。苦笑で応じると、2つ下の後輩は気味が悪いものを見る眼で眉を顰めていた。





先ほどは留三郎が浴室から出てきたところだ。文次郎は疾うにシャワーを浴び終え、今は黒い甚平に着替え、ゆったりとソファで寛いでいる。


網戸にぶらさがった風鈴が、チリンと夏を演出していた。家鴨とオニギリという異形の風鈴たちは、留三郎の手作りだ。以前はしょっちゅう冷房を入れるか、窓を開けてしのぐかでくだらない喧嘩になったものだが、ならばと留三郎が風鈴を用意して以来、この件に関しての喧嘩は格段に減っている。

マンションの9階にあるこの部屋は、網戸越しに虫が入ってくることもまずなかった。後から帰宅した留三郎の話によると、外では小雨が降っているらしい。ベランダのお蔭か雨が吹き込む様子はなく、今日も冷房に頼らず窓を開け放している。

夜風がカーテンを押しのけはらりと分け入り、さっと部屋を駆け抜ける。真夏にも関わらず今宵の風が涼しげなのは、雨の所為かもしれない。


文次郎はおもむろに眼を閉じ、平日のこの時間に揃って部屋で過ごせる贅沢をしみじみ味わった。普段、平日に2人の帰宅時間が揃うことは稀である。特に文次郎は寝る間を惜しんで仕事する男なので、終電ぎりぎりまで残業をしてくることもあれば、早めに帰宅していても家に仕事を持ち込んでいることもざらである。先週からは月末ということもあり、決算が立てこみ一層忙しくしていた。部屋でほっと休まる時間は久しぶりだ。


2つの風鈴が奏でる耳障りな音色が、まだ始まったばかりの夜への期待を膨らませる。

このまま眠ってしまうのも睡眠不足解消に悪くないはずだが、どうにも勿体ない。文次郎は、ただぼんやりと留三郎を待つ。






***






夏の風物詩に耳を欹てていると、漸く留三郎がリビングに戻ってきたようだ。目を瞑っているので、男の気配を敏感に感じ取る。

留三郎はぺたぺたと裸足ならではの足音を立てて近寄ると、文次郎の横にどかっと座った。その拍子にソファが軋み、濡れた髪から水分が跳ねる。湯上がりの身体からは湯気でもでているのか、直接触れてもないのに途端ほかほかした蒸気が伝わってきた。


そこで眼を開けた。

想像通り、上半身裸のままで、テレビに向かって身を乗り出し眼を輝かせる留三郎が視界に入る。

「おう、間に合ったか?今日の先発は誰だろうな」

「…留三郎。髪くらい乾かしてこい」

「このくらい、すぐ乾くだろ」

「馬鹿垂れ、びしょびしょじゃねぇか」

留三郎は濡れた頭にスポーツタオルを一枚乗せた状態で、赤らんだ素肌にぽたぽたと水滴を垂らしていた。後で着るつもりなのだろう。ソファの背もたれには、文次郎が着ているものと柄違いの甚平の上着がかけられている。いくら冷房を入れていない蒸し暑い部屋とはいえ、これはあまりに酷い。


見てられなくなってタオルを奪い取り、文次郎はソファに乗り上げ留三郎の肩を掴む。再びタオルを彼の頭へ戻すと、その手でわしわしと髪を拭き始めた。水滴が飛び散るのにも構わず、豪快に手を動かす。留三郎は、案の定すぐに暴れ出した。

「あ?何してんだよ、てめぇ!」

「ソファが濡れるから拭いてやってんだろ、馬鹿垂れ!」

「やるならせめて、もっと優しく拭けねぇのかよ!」

「この方が早く乾いていいだろうが!」

「禿げたらどうするんだよ!」

「…伊作が何とかしてくれるだろうよ」

「ふざけんな、てめぇが禿げろ!」

ぎゃんぎゃんと喚く留三郎は文次郎の腕を掴み返し、引き剥がそうと躍起になっている。だが拮抗する二人の実力であれば、力比べなら先に押さえつけてしまった方が強い。



有無を言わさず頭を拭き続けると、留三郎は観念したのか、今度はタオルの隙間から上目遣いでぎらぎら睨んでくる。

留三郎のこの眼がいい、と文次郎は思う。

彼の方が何やかんやと世話を焼きたがる節があるくせに、此方が手を出すと途端に反抗的だ。それがいちいち腹立たしい。だが、そうでなくてはつまらない。今も拗ねているのかぷくっと膨らんだ頬を、思い切り抓りたくなる衝動に駆られる。





あらかた水気を飛ばし、生乾きとなったところで解放してやった。くしゃくしゃに乱れた髪を指で撫でて整えてやるも、留三郎は未だ不貞腐れている。水分が移り重たくなったタオルを顔面に投げつけると、うざったそうに片腕で払われた。

ぼとりと間抜けな音を立てて、タオルが床に落ちる。


「何だよ、拭いてやったんだから礼くらい言えねぇのか」

「やり方ってのがあるだろうが!」

「髪が乾けば一緒だろ」

「俺はいつもドライヤー使ってちゃんと乾かしてやってんだろう!」

「残念だったな。俺は自然乾燥派だ」

「髪が傷むんだよ、馬鹿!」

「なら最初から乾かしてこ…あ、試合始まるぞ。おい、ビール」

「はぁ?おまえが持ってこいよ!」

「ああ?乾かしてやったんだから、おまえが持ってこい!」

「俺はそもそも頼んでねぇ!」

「あ?やんのか、この野郎!」

「いつでもかかってきやがれ!」

お決まりの台詞を皮切りに、2人はソファの上で胸倉を掴み合い、膝を立てガンを飛ばし合った。ばさばさに乱れた黒髪の間から光る、鋭いその眼差しが堪らない。留三郎の眼に自分はどう映っているのだろうかと、夢中になって目の前の双眸を覗きこんだ。


その眼の少し下方、むっと突き出された唇が不意に開く。

「じゃんけん」

「は?」

「ほいっ!」

掛け声につられて、空いた手を出してしまった。始めはしまったと思ったが、よく見れば仕掛けた留三郎が負けている。

ぷっと堪え切れず口の端で笑うと、落ちていたタオルで頭を叩かれた。気恥ずかしいのだろう。留三郎は耳を真っ赤にしながらも、勝負は勝負だと潔く台所へ姿を消した。


戻ってきたら今度は服を着せなければと、遠ざかる引き締まった背中を凝視する。酔うとどうせまた脱ぎ出すだろうが、致し方ない。どうやら本人に湯冷めしやすい自覚はないらしい。奴はすぐに腹を壊すのだ。




「文次郎、グラスがねぇぞ」

「冷凍庫見てみろ」

「おっ、冷やしといたのか。気が効くじゃねぇか」

「ギンギンに冷えているグラスで飲むビールが1番うまいからな」

「それを言うならキンキンだろ、バカタレ」

「お、今日の先発が発表されるぞ」

「つまみは出さなくていいのかー?」

「もう机の上にある」


テレビ画面では、滑舌の良い女性が登録メンバーの名前を順に読み上げている。今宵の勝負はセ・リーグ首位をかけた大一番。


夜はこれから始まる。










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