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仙蔵からその名を聞いただけで、心揺れ動く情けない自分がいた。近頃文次郎の様子がおかしいのだと知っただけで、期待に似た不安が心を騒ぎ立てる。どれほど単純なのだと自己嫌悪を抱くも、かと言ってその不調に自分が関係しているのかなど文次郎に確かめる勇気もない。

留三郎は始めに、「好いている」と告げている。故に文次郎は、それを了解した上で自分を受け入れているのだとばかり信じていた。あの不器用で堅物である男が、三禁を破ってまで身体を許してくれている。一言だけだが、自分に応じるような言葉も投げてきた。だから例え直接的に好意が告げられることはなくとも、名前が呼ばれるだけで心が満たされる覚えがしたものだが――…

そんな軽いフレーズだったんだね 便利な道具だったんだね どんなに後悔したって もう元には戻らない

女々しくなった思考回路を断ち切るように、持参していた水筒の水を頭から被った。ぽたりと前髪から雫が滴り、視界が狭まる。

水滴を振り払うように空を仰ぎ見れば、鮮やかな夜空がぐんと手前に迫ってきた。傾きかけた月に吠えるように、遠くで小平太の獣染みた怒声が聞こえる。恐らくあの3人がこの裏山のちょうど反対側で鍛錬を行なっているに違いない。勿論、留三郎はそれを推測した上で、あえて彼らとは離れたところを自主練習の場に選んでいるわけだが。



それとなく文次郎を避け続けて、数週間。文次郎が留三郎を追いかけてくる素振りはなく、顔を合わせないことは簡単だった。万が一鉢合わせになったとしても、親しんだ売り言葉に買い言葉で喧嘩をしてしまえば何てことはない。文次郎との喧嘩は身体に馴染み過ぎていて、躊躇いを覚える方が馬鹿らしかった。

とはいえ、明日の任務ではそうはいかないかもしれない。事前の打ち合わせによれば、二人の持ち場は離れているが、普段よりずっと距離が近くなる。冷静とは程遠い自分の性格をよく理解しているだけに、文次郎が平然としているのを目の当たりにするのは堪えるだろう。


特に考えがあったわけではなかった。このまま長屋に戻って寝るよりは、久しぶりにあの小屋を利用するのも悪くない。真綿で自分の首を絞めるような思いつきに無意識に苦笑を浮かべつつ、留三郎は文次郎との密会に使用していた小屋に向かう。







がらりと戸を引き、絶句した。何度も期待した想像。また文次郎が、此処で自分を待っているのではないかという切望。それが何故か今になって目の前にある。

彼にとってあの行為がただの鍛錬であれば、課題を終えた今わざわざ此処にくる理由はない。では何故、この期に及んで文次郎は此処にいるのだろうか――もしや、本当に?自惚れではなく、やはり僅かでも想いは通じ合っているのだろうか。


留三郎は無言のまま室内に入ると、横向きに眠る文次郎の背後に腰を降ろした。背中に脚が少しだけ当たる。そこから熱が伝わってくるかのように、彼の気配がぐんと強くなる。

「…寝てんのか?」

祈るような声で問いかけるも、文次郎が動く様子はない。寝たふりを続ける相手の意図を探りながら、留三郎はそっと彼の耳元へ口を寄せた。




「文次郎…俺は――…」

これが最後だと、触れることを止め蟠っていた感情を詰め込んで、たった一言に想いを乗せる。

けれど真摯な愛の囁きに、眼下の男が目覚める気配はない。

信じてたんだ本気で 疑うなんて嫌で 離れていくような気がしたんだ だけど

初めから全部嘘 近付いてなんかない こんなに舞い上がって馬鹿みたい


つまり、俺の想いは最初から受け入れられていなかったのだ。色の鍛錬のためだから、それだけだったのだろう。


それでも、きっと己の想いが変わることはない。留三郎は訪れたときと同じように静かに立ち上がると、ふっと灯りを吹き消して小屋を後にした。










冷たいまま回らなくなった、焦がれ狂い狂った真っ直ぐな曲線。まだ打つ波の扉開けて、さようなら





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