1日目 . (文次郎視点) 寝覚めると、見る限り漆黒の闇が広がっていた。 文次郎は暫くして、それが自分の瞼が閉ざされているためだと認めた。そこまで理解していて、なお視界が変わらないのは、瞼でさえ自分の思うように動かせないでいるからである。全身が鉛のように重い。四肢に至っては感覚が麻痺しているようで、布団をかけられた状態で寝かされていること以上の情報が得られなかった。僅かに指先は動かせそうであったが、力を込めるなという脳の警告を無意識に悟る。かなり重度の怪我を負っているに違いなかった。 ままならぬのは、身体だけではない。思考回路も鈍くまともに働かない。後頭部の疼痛に襲われながら、それでも文次郎は必死に記憶を呼び起こす。 重要任務の最中だった。忍術学園を卒業後、とある城に仕えていた文次郎であったが、その城が隣国の奇襲を受けて壊滅状態となったのが2日前。城付きの忍びは城主の指示で同盟国に機密文章を届けるため、自国の雑木林を駆けていた。文次郎も、その一人である。だが完全に敵の支配下に置かれた領土を抜けるのは容易でなく、まだ城の忍びの中では若手であった彼は、自ら志願し囮役を買って出た。この状況下での囮とは、同義で死を意味するといって過言ではない。 しかし囮役として、簡単に死ぬわけにもいかない。その点、自分は確かに任務を果たしたと思われる。追ってくる手練れを何人殺めたのか定かではない。でも決死の足止めにより、恐らく同朋はこの窮地を脱したはずだ。そして、むせ返るほど濃厚な血の匂いの中、文次郎は意識を失った。 始めは、当然ながら敵に捕えられたのだと考えた。けれど、放っておけば死ぬ人間を生かす理由が見当たらない。拷問し情報を絞り取ろうというには、手当てを施され、拘束具もなく布団に横たえられている現在の状況はどうも待遇が良すぎる。第一、敵陣の勝利は明確なものであった。敗軍の忍者からまだ情報を欲しているとは考え難い。 どれだけ思考を巡らせようと、変わらず身体が自分の意志に従うことはなかった。視野も閉ざされたままである。とにかく状況を把握しようと、文次郎は聴覚と嗅覚を使い神経を尖らせる。 すると、さらりと布の擦れる音を左耳が捉えた。近くに人間がいる。鈍い頭を働かせることに必死で気付かなかったが、どうやら相手はずっと真横に座っていたらしい。文次郎の集中力が欠けていたとはいえ、これだけ気配を消せるということは、自分を匿う人間は少なくともただ人ではない。 気を引き締めて正体を探ろうとする前に、相手の方が思わぬ行動に出た。 瞼は下りたままであるが、顔の前にすっと影が差したのがわかった。そしてその影はすぐに消え、代わりに耳元にくすぐったさを感じる。 あれだけ反応しなかった身体がぴくりと跳ねた、気がした。 隣に佇む人間が、文次郎の頭を撫でているのだ。記憶が正しければ自身は至る所に返り血を浴び、また自身の血液で、髪はべたべたと固まっていたはずである。怪我の治療と同時に、身なりも整えられたらしい。手の動きに合わせて、髪はよどみなく梳かれる。今更ながら、身ぐるみを剥がされ、何か重要な情報を隠してはいなかったかと慌てて記憶を辿る。 手の大きさや肌の張りから、相手が若い男であることは察しがついた。男はただ文次郎の頭を撫で、ときどき髪を持ち上げるようにくすぐる。その手つきは、どこか息苦しさを覚えるほど優しいものだった。 このように触れられたのは何時以来だろうか。当初から三禁を厳しく遵守していた文次郎だが、学園にいる間は同級生や後輩と慣れ合っていたし、密かに慕う相手もいた。けれど実直で不器用ともいえる彼は、学園を卒業し、忍者として生きる道を選ぶと共に全てを捨てた。卒業して数年間、寝食を共にした友人とは誰ひとり連絡を取り合っていない。見知った後輩が在学中は暫し学園に顔を出すこともあったが、多くが学園を卒業した近頃はそれもなくなっていた。 男は相変わらず文次郎の頭を撫で続けている。ときどき輪郭を辿るように頬をなぞり、額に生温かい手のひらが押し付けられる。目の隈をなぞるように触れられたときは、あまりのむずがゆさに顔を背けたくなった。絶えず鋭い頭痛に襲われていたが、男に触れられるとそれも少し和らぐような気がする。 見知らぬ男に突如撫でまわされ、本来は気持ち悪がらなくてはならないだろうに、動けないという理由を差し引いても嫌な心地はしない。この手を知っている…と、本能的に身体が理解していた。 *** 「文次郎」 どれだけ時間が経ったのか。名を呼ばれた気がして、文次郎は無意識に瞳を開いた。まさか開くとは思わず、眩しさに再び目を閉じる。次に瞼を持ち上げると、視界に映ったのは泣きそうな表情でこちらを覗きこむ旧友の姿だった。 「文次郎。目、覚めたのか?」 「…と、め…三郎?」 「動くなよ。ここは安全だから」 「なんで…おまえが…」 「あ、だから動くなって!」 腹筋に力を入れ、半身を起す。留三郎が慌てて背を支えたお陰もあってか、思ったよりもあっさりと起きあがることができた。全身の骨が軋むように痛むが、耐えられないほどでもない。 「寝てろっつっただろ!」 「耳元で騒ぐな…どうしておまえが…?」 ずっと横になっていた反動だろう。目眩を感じ、こめかみを押さえる。その動きに、大丈夫かと労るように留三郎が背中を擦ってきた。斯様な親切な行為を受けることが久しぶりで、思わず文次郎は相手を凝視する。 留三郎は自分の記憶より、肩幅が広くなり、体つきはがっしりと鍛えられていた。けれどその変化は恐らく自身も同様であり、彼は別れたときと何ら変わっていなように見える。 こちらの視線に気付いた留三郎が、戸惑った様子で見つめ返してくる。 「…おまえは変わらないな」 「…そんなこともない。久しぶりだな、文次郎」 そのやりとりひとつで、会わなかった数年間の距離が急速に縮まるのを感じた。 学園にいた頃は犬猿の仲と言われた二人であるが、単に憎み嫌い合っていたわけではない。むしろ相手を特別視していた故に、その想いを告げる手段を持たない自分たちは、結果喧嘩として構うような形になってしまっていただけである。想いを口に出しこそしなかったが、相互に近い感情を抱いていたことは違いない。二人は何度か身体を重ねたことだってあった。 「ここは何処だ?」 「俺の住処、だ。借家だけどな」 「何故、俺はここにいる?」 「…俺がおまえを拾ったからだ」 そう言うと、留三郎は現在までの経緯を簡潔に説明し始めた。 自分は街の外れに、瀕死の状態で倒れていたらしい。偶然通りかかった留三郎がそれを見つけ、懇意にしている医者に診せ、治療を行なうなどの一切の面倒をみてくれたそうだ。 「それは…世話になったな」 「こちらが好きでやったことだ。気にするな」 誰かに面と向かって礼を述べることも久方ぶりで、はにかみながら感謝を告げれば、留三郎が屈託なく微笑む。 留三郎は続けて、何処の部位の損傷がどの程度で、どんな処置を施してあるのかを詳細に説明していく。 「なぁ、もう1つ聞いてもいいか?」 「なんだ」 「俺は…治るのか?」 その言葉の裏には、再び忍びとして生きていくことができるのかという問いかけが含まれていた。身体は想像していたよりも酷い状況ではないように思える。様々な個所が痛みを訴えるが、動かせないこともない。しかし、忍びとして生きていけるまでに回復するのかは自分では判断し難いところであった。数年来の再会とはいえ、彼にも暗に言いたいことは伝わっているはずである。 その質問に、留三郎は鋭い眼を一瞬大きく見開き、ぎゅっと口を噤んだ。 . 戻る TOP |