28日目
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春の気配がじわりと日常に入り込んできていた。

文次郎の怪我は治った。つまり、そろそろこの時間に見切りをつける頃合いであることは、互いに嫌というほどわかっていた。後はタイミングを計りかねている…そんな状況である。


嘘から始まったこの生活は、偶然が生み出した白昼夢であるかのように、平和で心地よいものであった。

けれど、ずるずるとこの中途半端な関係を続けられるほど二人は器用な性格をしていない。文次郎が忍者として再び生きていくことを望むのであれば、このように他者と慣れ合う暮らしは忍びである彼をいつか殺しかねない。






とある朝。文次郎が作った朝食を食べ終えると、普段のように別行動を許さず留三郎は再び彼に席を勧めた。

「話がある」

本来であれば文次郎が言い出すのを待つべきであったが、留三郎には期限が迫っていた。その一言でこちらの意図を読み取った文次郎は、自分の前に静かに座りなおす。どうして自分たちが向かい合うと睨みあってしまうのか。ただ視線を合わせているだけなのに、ぴりっと独特の緊張感が走る。


留三郎はひとつ息を置き、厳かに言葉を紡ぎだした。

「俺は忍びをやめる」

その言葉は、さすがの文次郎もすぐには理解できなかったらしい。何とも間抜けな顔でこちらを見てきたが、留三郎は構わず一方的に話を続けた。

「正確にはやめるのではなく、教師になる。半年ほど前、ふと用事があって忍術学園に立ち寄ったときに声をかけていただいてな。話を受けることにした。この春から…教師として学園に戻るんだ」

文次郎が自身の着物の裾を握りしめているのを、視界の端で捉えた。力を込め過ぎてか、その手は僅かに震えている。

「ここは学園を出てからずっと拠点にしていた家だが、教師になったらもう戻ることもないだろう」

「…そうか」

「…文次郎は、答えは見つかったのか?」

これからどうするんだと遠まわしに尋ねるも、彼から返答はない。何ごとにも常に真っ直ぐである文次郎が、まだ結論を導き出せていないことは少々意外だった。相手からの反応がないので、留三郎はずっと考え続けてきた台詞を伝える。

「…もし忍びに戻るのであれば、お前にこの家をくれてやる。ここを拠点に次の仕事を探せばいい。だがもし…」

そこで留三郎は先を躊躇う。果たして自分がこれを言って、相手は困らないだろうか。実直で不器用な相手を不必要な発言で惑わせることはしたくない。けれど文次郎がじっとこちらを見つめ続きを待っているのを認め、再び話し出す。

「だがもし俺と共になる気があるのなら、一緒に教師になれ。先方にはいくらでも話は通せる。おまえが選べ」

学園にいた頃から忍者になることが全てであった文次郎を、1カ月間も引きとめただけでも心苦しさを感じていた留三郎には、一緒に来いと強請るような台詞はやはり言えなかった。



固く拳を握り締め動かない文次郎を横目に、留三郎はすっと立ち上がった。彼を放置したまま、こっそりとまとめていた手荷物を持ち、家の扉に手をかける。

「…俺とくる気があれば、陽が落ちるまでに下の峠まできてくれ。そこで一晩泊まり、学園へ向かおうと思っている」

彼は一言も言葉を発さなかったが、聞いているのか?などの問いは愚問であった。留三郎は一度振り返り、愛しい男と視線を交錯させる。相変わらず不健康そうな隈を携えるその瞳をみただけでは、返事は判断できなかった。


じゃあなとも行ってくるとも言わず、留三郎は静かに家を後にした。









文次郎のことを抜いても、卒業後からずっと拠点としてきた地を離れることは寂しくもあった。だが、先に待つのはあの忍術学園での生活である。教える側と立場は異なるが、あの学園での穏やかな日々を好んでいた留三郎には願ってもない話であった。更に文次郎まで連れていこうなんて、甘い話かもしれない。


とりあえずここを離れなくてはと脚を進めようとしたとき、背後で勢いよく扉が開く音を聞いた。








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