main | ナノ





「ようこそなまえみょうじさん」


本当に来るとは思いませんでしたよ。レギュラスくんは静かに言った。
月が満ちるのをこんなに待ち望んだことは未だかつてない。私は本当に楽しみに今夜を待っていた。


「レギュラスくんこそ」
「僕は頻繁に訪れていますよ」
「え?」
「ピアノを弾いてると癒されるんです」


確かにレギュラスくん程の腕前なら弾いていて楽しいだろう。辛うじて音階が分かるような私とは雲泥の差だ。
レギュラスくんはそれ以上何も言わず、手のひらをスツールに向けた。座れ、ということなのだろう。前回聴いた曲とはまた違ったものばかりで、それでも私の胸を動かすには十分だった。窓から差す月光も漆黒のピアノもレギュラスくんも、私が座るスツールも何もかも前回と同じだけれど気持ちは確実に育まれている、そんな気がした。
どれぐらい演奏を聴いていたか、時間なんて関係なければ気にもならなかった。ピアノの音色が止むと同時に私は精一杯の拍手を送った。スタンディングオベーションさながら。私は前のめり気味だったせいで体制を崩し、スツールから落ちた。夢中になるのはいいが、流石に恥ずかしくて顔に熱が集まるのが分かった。


「大丈夫ですか?」
「は、恥ずかし…」
「そんなにも真剣に聞いて下さってたんですか?」
「…うん、だってレギュラスくんの演奏だもの」


近くに駆け寄って来てくれたレギュラスくん。初めて至近距離で見た顔。


「私…レギュラスくんのこと知ってるわ、見掛けたことあるもの」
「それは」


咄嗟に哀しげに伏せられた顔に私はずきんと胸が痛んだ。


「それは僕ではないですよ」
「え、あ、レギュラスくん!」


失礼します、彼は空き教室を足早に出て行ってしまった。
へたり込んだままの床が冷たかった以上に身体の内側がひやりと縮んだ。


「レギュラスくん…」


私の声は空き教室に、降り注ぐ月光に染み込んで消えた。



09.10.20

- ナノ -