「ねーマルコさーん」
「あ?」
「人魚姫ってさあー」
「人魚姫?」
「あれ?知らない?」
寝そべっていたソファーから身体を起こしてマルコさんを見る。マルコさんは机に向かっていたけど、読んでいた新聞から顔を上げてこっちを見ていた。わたしは持っていた本の表紙をマルコさんへ見せてタイトルを指でトントンと叩く。
「結構有名だけど、男の人は知らないのかな」
「いや、知ってるよい。知ってるがお前、歳幾つだい」
「うわ!普通レディーに年齢の話するかなあ」
「それ自分の本かい」
「スルーですか。うん、前の島で50ベリーで売ってた古本なの」
少し黄ばんだ、書物特有の紙臭い匂いが鼻をくすぐる。普段あんまり本を読むことはないんだけど懐かしさと安さに惹かれて衝動買いしてしまったのだ。久し振りに読んだ本は昔と変わらず、アンハッピーエンドのまま。子どもの頃読んだ時は特になんとも思ってなかったけど人魚姫って結構悲しくて残酷な話だよね。人魚姫は声が出ないって分かってるのに王子の傍に行くことを願って、王子を殺してその血を浴びなきゃ泡になって死んでしまうことになって、それでも最終的に人魚姫は王子を殺せず自ら死を選ぶ。王子を愛してたから。大人になってから読むとなんか深い。こんな悲しい童話があっていいのかな。童話ってゆうのはもっとメルヘンチックなものじゃないのかな。少しボロいページをペラペラと指で遊びながらもう一度マルコさーん、と読んだら新聞に視線をやりながらなんだよいと短く返ってきた。
「人魚姫ってね」
「あぁ」
「処女喪失の暗喩、なんだって」
「…あぁ?」
わたしの言葉が予想外だったのかマルコさんはまたもや新聞から顔を離してわたしを見た。ものすごく顔をしかめている。意味が分からん、ってそんな顔。わたしは最後の後書きページを開いて文字列を視線でなぞった。
「繋がっていた足が破瓜で二つに分かれて、それが原因で王子に愛される事はないという話…って書いてある」
「…ほう」
「これって人魚姫の初めては魔法使いに奪われたってことかな。うわ、魔法使い最悪」
王子に焦がれた清らかな身体は魔法使いに奪われて、代わりに声も出ないくらいの痛みを与えられて。なんで王子は人魚姫に気付かないんだサイテー、とか思ってたけど、ほんとうにサイテーなのは魔法使いだったのか。人魚姫って報われないなあ。
ふとなんとなく、マルコさんの顔を見た。マルコさんは既に新聞に夢中である。新聞の何が面白いのかわたしには分からないけどマルコさんは本とか読むのが結構好きだ。夜も寝ないで読むこともある。時々隈をこさえているし髭が伸びっぱなしなことも。なんかほんと、悪人面って感じ。悪人も何も海賊なんだけど。それでも不潔感は無いと思うのは、わたしの脳味噌にフィルターがかかっているからだろうか。
「わたしにとっての魔法使いはマルコさんだね」
口を突いて出た言葉はそんなもの。新聞をめくりかけたマルコさんの手がぴたりと止まる。そのままゆっくり新聞を閉じると顔だけをこっちに向けた。なんだか愉快そうに笑っている。うわ、悪人面。マルコさんは机から離れるとわたしの隣に座った。悪人面が近付いてきて、そっとくちびるを塞がれる。ただ重なるだけのキスは長くてやさしくて、悪人面からは想像出来ないものだった。やがて離れたそれは三日月が寝転んだ形をして、小さく動いた。
「泡になって逃げるかい?」
「まさか。『わたしは王子を殺すわ。そしてあなたと結ばれるのよ』」
「…『代償は声じゃねェ、お前自身を貰う』」
とんだ人魚姫だよい。そう呟いて触れたくちびるは熱くて熱くて、泡にはならずともわたしはとろけてしまうのだと思った。人魚姫は報われなかったのかも知れないけど、後悔はしてないんだろうなあ。だって最期まで王子を愛し通したんだから。叶わなかった恋だけど自分の好きなように想えたんだから。誰かを愛し続けることは、女にとって幸せなこと。まあわたしは通じ合わなきゃ悲しいけど。人魚姫はそれでも幸せだったんだよね。悲しいけど、あたたかくてやさしいストーリー。形は違っても人魚姫、わたしたちは幸せなんだね。マルコさんと頬を合わせてなんとなく小さく笑った。
Special Thanks rui!
110509/ten