忍務明けの斜堂先生は気が昂っておられる。それが戦場からの帰りであれば尚更だ。控え目で不器用な方だからすべてを吐き出せないまま学園に帰って来てしまう。そして眠れぬ夜を過ごすのだ。と、山田先生に聞いたことがある。つまりそれは今このことだろう。
眠っていたら外に人の気配を感じた。同室の人間を起こさないように部屋を抜け出してみたが外には人どころか仔猫一匹いやしない。これは可笑しい。少し気になって忍たまの長屋の中庭を覗いて見た。そしたら斜堂先生がいた。無表情の斜堂先生にしては険しい顔をしていて変だとすぐに感じた。そう言えば斜堂先生は昨日から忍務に出ていたっけ。ここから冒頭に戻る。
「もし、斜堂先生」
「…何をしているのです」
「人の気配がしたので」
「部屋に戻りなさい」
斜堂先生にしては強い語気だった。山田先生の話は本当だったらしい。気の昂りをぶつけるところが無くて苛々しているのだ、きっと。斜堂先生は私を一瞥すると背中を向けてしまった。それから動き出そうとはしない。部屋に戻っても今は苛々するだけなんだろう。こんな斜堂先生は初めて見る。あの冷静な斜堂先生が苛々って、よっぽどなんだなあ。戦場帰りらしいし。私は細い斜堂先生の背中をじっと見つめた。
「そうだ先生、私を抱いたらよろしい」
「…まだいたのですか」
「昂った感情を鎮めるのに女を抱くのは良い手だと聞いたことがあります」
「黙りなさい。教師をからかうものではありません」
「私は本気ですよ」
忍たまの塀を飛び越えて斜堂先生の背後に降り立つ。肩越しに振り返った先生が息を呑むのが分かった。多分私が寝間着だからだろう。女の寝間着姿なんか下着姿となんら変わらない。気が昂っている斜堂先生からしたら裸も同然。突き放すようなことを言っておいて斜堂先生は私から目を離せなくなっている。それは男の悲しい性なのか昂る感情がそうさせているのか、まあ分からないけれど。一歩、一歩。ゆっくり近付く。斜堂先生は逃げも迫りもしない。動かなかった。面白い。今の隙に、と手を伸ばす。
「調子に乗らない」
「んぶっ」
私の手が先生に触れる、寸前に先生の手が私の顔を押さえた。そのままぐっと遠ざけられる。力が強くて全然逆らえない。こんなに細いくせになんて力だ。その上押さえるだけなら未だしも斜堂先生は手に力を籠めて私のこめかみをぐりぐりしてくる。これは痛い。私はじたばた暴れるしかなかった。
「幾ら己を制御出来ないと言え生徒に手を出す程堕ちていません」
「いたたたたた、痛い痛い」
「早く部屋へ戻りなさい。でないと」
斜堂先生の冷たいてのひらが顔から唇へ移動する。いきなりのことに頭がついていかない。斜堂先生は自分の顔を私の唇を塞ぐ手に引き寄せた。チュ、と。静かな夜にソレはやたらと大きく響いた。斜堂先生の目に映る自分が見えるくらい、近くにいる。このてのひらさえ無ければ唇は触れあっている。そう思ったら顔に熱が集中した。
先生の片手が私の肩を掴む。指が関節に食い込んで痛い。あまりの痛みに堪えきれず先生の胸を突き飛ばした。先生は僅かによろめいて私から離れる。首をもたげて私を見た先生の目はまるで、ケモノのようだった。
「…壊してしまいますよ」
貴女など簡単に、
斜堂先生の声が脳に直接響いた気がした。今目の前にいるのは斜堂先生じゃない気さえ、した。先生はしばらく私を視界に入れた後に背中を向けて歩き出した。ついさっきまで頼りないと思っていた背中が少し怖いと感じたのは、何故だろう。
(100606/ten)