知らない知らない知らない。クロコダイルなんか知らないわ。小さくぶちぶち呟いたら大きな涙の粒がぼろりとこぼれた。ころころと頬っぺたを転がって真っ赤な絨毯に染みを作っていく。高価な絨毯だから汚すなって口酸っぱく言われていたけど、知らないわそんなの。汚したくなれば今すぐここへ来て拭き取ったらいいじゃない。わたしはもう嫌よ。あなたの言いなりになるは、もう。広い部屋の中、彼の部屋のど真ん中でわたしは座り込んで泣いた。このまま泣き続けていれば海が作れないかしら。そうしたら、もう彼は近付けないわ。そう考えて、彼に触れられなくなるのだと思うと悲しくて、悲しく思う自分が悔しくて、やっぱり涙がこぼれた。
「おい」
低い声がしん…と響く。いつの間に帰ってきたのだろう。今日は帰らないかも知れないと覚悟すらしていたのに。もう一度「おい」と言われたけれど顔を上げたりなんかしなかった。小さな、ほんとうに小さな反抗だ。こんなことに彼が気付くとは思えないけれど。硬い爪先がわたしの腰を蹴る。そんなに痛くない。また蹴られる。ちょっと痛い。また蹴られる。痛い。また蹴られて、わたしは彼の足をバシッと叩いた。ザアッと砂が散る感触。彼の動きがぴたりと止まる。視線は落としたままで、恐る恐る口を開いた。
「やめてよ」
「…てめェが返事をしねェからだ」
「どうだっていいじゃない」
「何故、先に帰った」
「何故?」
なんだかおかしくなってわたしは鼻で笑った。馬鹿みたい、馬鹿みたい。何故だなんて、分からないなんて。でも、そう。彼に分かるわけない。彼にはきっと、わたしの気持ちが理解出来ない。悲しいのも苦しいのも辛いのも、分かるわけないの。
「クロコダイル、キャッチの女の子と仲良く話してたわ」
「それがどうした」
「抱き着いてたわ」
「だからなんだ」
数時間前のこと。クロコダイルと町を歩いていたら、クロコダイルはバーのキャッチに掴まった。仕方ないわ。だってクロコダイルは見るからにお金持ちだもの。それに顔もいいから、女の子が声をかけたくなるのも分かる。だけど彼女が抱き着く必要は無かったし、クロコダイルも抱き寄せることはなかった。わたしが隣にいるのにどうしてそんなことが出来るの。こういった話は今日が初めてじゃない、何十回とあったことだ。気にしては負けだからと見て見ぬふりをして彼の隣を歩けることを喜んでいたけど、もう無理。だから逃げるようにして帰ってきたのに。
「いつも惚れた弱味で許してたけど、わたしだって、嫌になるの」
「……」
「他の子と喋らないでなんて図々しいこと言わないわ。言えないわ、そんなの。でも、あんなにベタベタしなくたってい」
「黙れ」
がつん。また腰を蹴られた。痛い。まだ話の途中なのに。なんて我が儘な男なの。だんだんむかむかと苛立ってきて、わたしは跳ねるように立ち上がった。殴ってやる。振り上げた右手をいとも簡単に受け止められた。反射的に左手で胸を殴る。するとザアッと砂なり顔に散らばってきた。砂が目に入って痛い。なにこれ、わたしかっこ悪い。ぺっぺっと舌を出したらクロコダイルがクハハと愉快そうに笑った。悔しくて恥ずかしくて、わたしはぼろぼろ泣き出した。
「何よ何よ何よう、離してよう!」
「醜い顔だ」
「そう思うんなら見ないで!わ、分かってるわ!嫉妬してる醜い女だって!だけどし、仕方ないじゃない!」
「何がだ」
「クロコダイルが素敵過ぎるのがいけないのよ!」
数秒間、妙な沈黙があった。ブフッと吹き出す声がして、呆然と顔を上げればクロコダイルが顔を逸らして笑ってる。肩を震わせてる。こんなに笑う彼は、初めて見た。だけど、なんで笑われてるのか分からない。むかつく。だってほんとのことだもの。クロコダイルが不細工で貧相な格好をしていたらきっと女の子にもモテるわけないしキャッチに捕まることもないはず。未だ笑い続けるクロコダイルの脛目掛けて蹴ってみるけど砂になるだけでダメージを与えることは出来なかった。
「それは、仕方ねェな」
「…自分で言う?」
「てめェが言ったんだろう。あぁ、汚ねェ面だ」
「じゃあもう放っておいたらいいじゃない…」
「放っておいたら」
クロコダイルの指が少し乱暴にわたしの涙を拭った。もしかしたら彼にとっては優しかったのかも知れない。分からない。だって涙を拭って貰うなんて、こんなに優しく触れられるなんて初めてだった。
「放っておいたら、てめェがいなくなったんじゃねェか」
なら、捜すしかねェだろう。そう言ったクロコダイルをわたしはなんだか信じられない気持ちで見上げた。いま、捜すって言ったの?クロコダイルがわたしを?視界がじわりと潤む。そうだわ。放っておいてと言っておきながら、わたしは、彼を求めていた。いつだって彼に見ていて欲しかったのだと、今更ながらに痛感した。
クロコダイルの指が頬っぺたを撫でて顎を掬う。目尻をべろりと舐められて、びっくりして目を見開いた。クロコダイルは鬱陶しそうにべっと舌を出している。さっきわたしの顔についた自分の砂が舌についたみたい。その様子をまじまじと見つめて、突然身体からふっと力が抜けるのを感じた。変なの、わたし、さっきまでぐちゃぐちゃしていたのに。彼がわたしを捜してくれていたのがこんなにも嬉しいなんて。やっぱりこれは惚れた弱味だわ。だけれど、それはきっと彼も同じ。
「…他の子とベタベタしないで。じゃないとわたし、捜しに来れないところへ行ってしまうわ」
「嫉妬に狂うくらいおれに惚れたてめェが、おれから離れられるのか?」
「それはあなたもでしょう」
「…クハハハ、違いねェ」
いないと気になってわたしを捜してしまうあなただもの、きっとお互い離れるなんて無理。掴んだままだった右手を強く引かれる。クロコダイルの胸に鼻を打ち付けて少し痛かった。だけど寄せた心臓が強く鼓動を刻んでいたから、わたしは笑ってしまった。走って捜してくれたのかしら。わたしみたいな女なんかを。
前言撤回。言いなりになるのも悲しくて辛いのも嫌だけど、それでもクロコダイルといたい。でもそれを言うのは悔しいから、別の言葉をプレゼントするわ。
「次誰かとベタベタしたらわたし、ドフラミンゴのところへ行くわ」
それは有り得ない
そう言って強く抱き締められる、あなたにわたしはまた泣かされるのだわ。
Special Thanks mafuka!
110512/ten