門の前を掃除していると、少し遠くから見慣れた顔が近付いて来るのが分かった。明るめの髪につり目の青年。間違いない、あれは利吉さんだ。学園に来るのは結構久々じゃないかな。また山田先生に会いに来たのかな?利吉さんはよく山田先生に奥様の小言を届けに来る。その時のふたりのやり取りはなかなか面白い。「父上!」「次の休みには帰るから!」「いいえ今すぐに!」「ああもう勘弁してくれ!」仲のよろしいことだ。片手で竹箒を握り締めて手を振る。気付いた利吉さんが大きく振り返してくれた。
「こんにちわ」
「こんにちわ利吉さん。今日はどんなご用ですか?」
「いつものね。…小松田くんは?」
「さっき大事な書類に墨汁ぶちまけちゃって、多分まだ叱られてると思います」
それはもうこっぴどく。そう付け加えると利吉さんはくすくす笑った。門をくぐって入門票を引っ掴む。利吉さんは『いつもの』ご用だっておっしゃった。利吉さんの『いつもの』は、山田先生関連しかない。お互い小言を言い合ったりもするけど、やっぱり仲良しなんだよね。利吉さんも山田先生も顔を合わせると嬉しそうだもの。いつか山田先生の奥様もいらっしゃらないかな。ものすごく美人だって聞いたことがあるから興味がある。いつか利吉さんとふたりで来たらいいのにな。入門票と筆を片手に利吉さんのところへ戻った。
「じゃあ、入門票にサインしてくださあ〜い」
「ぷっ、それって小松田くんの真似かい?」
「似てました?」
「少しね。…まずはこれを受け取って欲しいんだけど」
「え?」
入門票を手渡そうとしたら、すっと顔の前に出された一輪の花。青紫の花びらが綺麗なそれは杜若だった。立派に、凜と咲いた杜若はどこか堂々とした雰囲気を漂わせてる。少しの間呆然とそれを見つめて、はっと我に帰って、慌てたように受け取った。利吉さんは照れ臭そうに口元を緩めている。
「…見事な杜若。どうしたんですか?」
「仕事帰りに道端に咲いていてね。一輪だけ拝借させて貰ったんだ」
「頂いてもいいんですか?」
「勿論。一輪しかないけど」
「いいえ、嬉しい」
普段花を見てうっとり、なんてことはないのだけど、これは素直に綺麗だと思った。不思議。一輪しかないのに強い存在感。部屋に花瓶はあったかな。せっかく利吉さんがくださったんだもの、大切にしなきゃ。利吉さんと目があって笑いかけたらぱっと逸らされてしまった。なんだかまだまだ照れ臭そう。
「そ、それじゃあ私はこれで失礼するよ」
「はい。…え?山田先生のところへ行かなくていいんですか?」
「うん」
「でもさっき『いつもの』って」
利吉さんの『いつもの』は山田先生関連じゃあなかっただろうか。杜若を片手に首をかしげると、利吉さんは火が着いたように顔を真っ赤にさせた。え、なんですかその顔。私何か変なこと言いました?利吉さんは首の後ろをせわしなく撫でて視線を落とした。少しだけ開いた口からは「あのう」だの「ええっと」だのとこぼしている。
「その、だから、いつものと言うのは」
「山田先生なら職員室におられますよ」
「勿論父上のこともそうだが私は」
そこまで言うと利吉さんはコホンと咳払いをした。首の後ろから手を離してまっすぐ私と視線を合わせる。変な利吉さん。どうしたのかな。こんな利吉さんは初めて見る。いつもいつもシャンとした人だし、会うとにこにこして笑いかけてくれるし、父上が父上がって言いながら色んな話をしてくれる。いつもいつも。利吉さんは私をまっすぐ見て、薄い唇をかっと開いた。
「私はいつも、君に」
「あ〜!利吉さんじゃないですかあ!」
突然背後から聞こえた声に振り返る。そこにはたったったっと小走りで近付いて来る小松田くんがいた。どうやらようやくお説教から解放されたみたい。ぱっと顔を前に戻して、目を丸くした。利吉さんがこれでもかってくらい顔をしかめていたのである。そう言えば利吉さん、前に小松田くんが苦手だとか言っていたっけ。今もそうなのかな。だからこんな顔…。利吉さんは眉間に深い皺を刻み込んで小松田くんを睨んだけど、小松田くんはケロッとして私の隣に並んだ。
「わあ、綺麗な杜若!これどうしたの?」
「利吉さんがくださったの」
「利吉さんが?あぁ、じゃあ今日はサインは要りませんねえ利吉さん。用事は済んでますものね」
「え?用事って?」
「うわ────ッ!ちょっ、わ、私はこれで失礼するからそれ以上余計なことを喋らないでくれ!」
「えぇ?余計なことって?」
両手をぶんぶん振って慌てる利吉さんとは裏腹に小松田くんは不思議そうに首をかしげた。それを隣で見る私も同じように首をかしげる。用事って?余計なことって?利吉さんが掴みかかるようにして小松田くんに手を伸ばす。その手が小松田くんの口を塞ぐより、小松田くんが喋り出すほうが少し速かった。その小松田くんの言葉を私がしっかり聞いてしまったのも、早かった。
「利吉さんがいつも彼女に会いに来てるって余計なことなん、ふがっ!」
「……え」
「ああああああああ…!」
利吉さんがいつも、私に会いに来てた、って。そりゃあ確かにいつもいつもお話したりしていたけど、まさか。今度は私が赤くなる番だった。かっと熱くなる顔を下げつつアの音しか出さなくなった利吉さんを見ようとして、見れなかった。ヒュッと音を立てて消えてしまったのだ。流石売れっ子忍者、ヒラ事務員では見ることも出来ない。だけどこれはずるいんじゃないだろうか。言い逃げだなんてひどい。
「…まあいっか」
「何があ?」
「ううん、何でもない」
彼はまたいつもみたいに学園に顔を出してくれるだろう。それが『いつもの』利吉さんだから。そしたらその時、私の気持ちを伝えたらいいや。杜若を見つめてだらしなく緩む私に、小松田くんが小さく笑った。
次はいつ逢えますか?
利吉さんが小松田くんを苦手って言ったの、分かっちゃった気がするなあ。
Special Thanks yocchin!
110512/ten