廊下ですれ違った彼女の横顔を見て、彼女に用があったのを思い出した。先日彼女に本を借りていたのだがもう読み終ったから返さなくてはと思っていたのだ。音も無く廊下を歩く彼女の肩にトンと触れると彼女はびくりと身体を跳ねさせた。それから慌てたように振り返る。
「…あ、斜堂先生」
「…どうかしましたか」
「冷たくてびっくりして…先生の手だったんですね」
冷え性ですか?と身体は首をかしげる。私は彼女に伸ばした手を見つめた。青白い、熱を持たない手。確かに自分でも冷たいと思う。冬になると指先の感覚は無いに等しい。だから寒い季節は筆を持つことが億劫になる。それよりも瞼裏に浮かぶのは過去の記憶だ。
「よく言われます。私の手は冷たいと」
「はい、氷みたいです」
「昔からですよ。周りから気味が悪い、妖怪のようだと言われました」
冷え性というのだろうか。人よりそれは酷かった。それを周りの人間は気味が悪いと言った。元より私は血色のいい人間ではない。外を歩けば具合が悪いのかと問われる程顔色は悪いし色白というより蒼白な肌。それがますます不気味さを掻き立てるのだろう。近寄るな妖怪、気持ち悪い。そう言って私を遠ざけた。酷い時には墓場で幽霊と話していた、など訳の解らない噂を立てられたこともあった。自慢じゃないが私は幽霊を見たことは無い。話したことも無い。それを周りの人間は信じない。冷たい私を死人のようだと拒絶するばかり。故に私は自分の手が大嫌いだ。
「先生、知ってますか?」
不意に右手がぬくもりに包まれた。見れば彼女の両手が私の手を握っている。私とは違う、とてもあたたかい、優しい手だ。言われた意味が解らず彼女の顔を見れば彼女はにこりと花のように笑う。この寒い空気の中、彼女の周りはあたたかな光が差し込むようだった。
「手が冷たい人は、心があたたかいんですよ」
「…聞いたことはありませんが」
「私はその通りだと思いますよ。斜堂先生はとてもお優しいですから」
「……」
「校庭に咲く花に触れる手も、教え子を撫でる手も、先生の優しさが感じられます」
そう言って彼女はまたにこりと笑い私の手を強く握り締めた。私の、死人のように冷たく忌み嫌われた手を、彼女は優しいと言った。妖怪のようだと遠ざけられた私の心をあたたかいと言った。そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。彼女の手に包まれた自分の手を見つめる。血色が悪く青白い私の手。大嫌いな手。
優しいのはどちらか。あたたかいのはどちらか。包まれた手に力を篭めて一度だけ握り返し手を離した。離れていくぬくもりが少し惜しいと思った。
「…この間借りた本をお返ししようと思ったのですが」
「あぁ、あれ面白かったでしょう?」
「はい。失礼ですが取りに来て下さい。茶菓子を出しますよ」
「わ!行きます行きます!」
大嫌いな手が、少しだけ好きになった日だった。
(100127/にやり)