風呂上がり、軽く逆上せたため少し風に当たろうと甲板に出ると先客がいた。豊かで艶やかな黒髪を肩甲骨の辺りで纏め盃を仰いでいる。その後ろ姿に一瞬ナースかと思ったけれど肩の逞しさや背中の広さから、ああ彼はイゾウさんだと確信した。あんなに綺麗な黒髪の男はイゾウさん以外に有り得ない。普通髪は潮風で傷んでしまうものなんだけどなあ。風呂上がりだからしっとりしているものの乾けばキシキシになる毛先を摘まんで睨み付けた。私と彼とで何が違うのだろう。イゾウさんに近付く。肩を叩く前に彼はくるりと振り返った。
「おォ、どうした?」
「涼みに。イゾウさんは?」
「おれも涼みに来たんだ。風呂上がりか?色っぽいな」
「…いや、イゾウさんには負ける。うん」
「んなこと言うなよ」
イゾウさんはけらけら笑ったけどほんとのことだ。どうやらイゾウさんも風呂上がりだったらしく髪が濡れている。普段から艶々してる髪が更に輝きを増していて、頬やうなじに張り付く髪の毛の一筋というそれだけが、なんだか艶かしい。今はすっぴんなのになんでだろう。イゾウさんは男のくせに目を背けたくなるくらいに綺麗だ。私なんかよりずっと色っぽい。女として情けない気もする。イゾウさんの隣に並び盃を奪った。勢い任せに喉に流して、目を見開く。食道がカッと熱くなり舌が痺れた。べえっと舌を出す。なにこれ。度数が強すぎるでしょ。イゾウさんを見上げるとやっぱりけらけら笑っていた。
「旨いだろ?」
「…不味い」
「女の子にゃちィときついかねェ。ほら、返しゃんせ」
「はい…」
差し出された手に盃を返す。忘れてた。イゾウさんはドが付く程のうわばみだった。洋酒はあまり好きじゃないらしく清酒ばっかり飲んでるけど、度数がハンパない。そう言えば私、イゾウさんが酔い潰れてるところって見たことないや。想像も出来ない。イゾウさんは徳利から静かに清酒を注ぐと自然な流れで口に運んだ。ただそれだけの仕草が華やいで見えるのは、私の目がおかしいのか。イゾウさんの持つ本来の魅力なのか。たぶん後者だろう。イゾウさんはほんとうに綺麗だ。嫌味でも皮肉でもお世辞でもなく。
例えば、切れ長の双眸。大きくもない目は確かに男のパーツなのにどこか婀娜めいている。例えば、それを縁取る長い睫毛。月明かりが影を落とす様は哀愁を添わせていて。例えば、薄い唇。いつもは紅く彩られている唇も今は生まれたままの姿で幼げなのに、中性的で妖しげ。例えば、喉だとか鎖骨だとか、もう全部が、イゾウさんは、狡い。いつも着物を着ているイゾウさんはエースより露出が少ないくせにエースより色っぽい。ほんとにそうだ。何度言っても足りない。イゾウさんは、色っぽい。イゾウさんは視線だけ動かして私を見ると、くすりと笑った。
「そんなに見つめちゃ穴が開いちまうよ」
「え、あ、いや」
「逆上せたかい?」
「いや…いや、うん。そうなのかも」
「なんだそりゃ。大丈夫?」
イゾウさんの手がぴたっと額にくっついた。予想もしなかった出来事に息が詰まる。ちょっ、と、待って。このタイミングで触っちゃ駄目でしょう。イゾウさんの手が私に触れてる。触れられたところから熱を持つ。離れていく手が惜しいと思ってしまった。指、長いなあ。爪の形も綺麗でセクシーだ。ああ駄目だ。私はきっと逆上せてしまったんだ。じゃなかったら、こんなにくらくらするはずない。
「熱はないけど…おい?」
「…駄目だ」
「ん?」
「イゾウさん綺麗過ぎてくらくらする」
「…そりゃ、嬉しいこって」
「わ、っちょ」
イゾウさんの手が私の腕を掴んで強く引き寄せた。いきなりの行動に反応出来ず、イゾウさんの胸にぶつかる。てのひらに厚い胸板を感じる。慌てて顔を上げると切れ長の双つの光がこっちを見下ろしていた。唇はニィッと悪戯に歪んでいる。これは確信犯の顔だ。タチが悪い。なのに、魔法をかけられたみたいに動けない。この男の放つ魔性は危険だと脳の片隅で理解した。イゾウさんの指が私の目尻を撫でる。そのまま頬を伝って、唇をきゅっと摘んだ。綺麗な彼に反して私は間抜けな顔になる。それなのにイゾウさんはやっぱり笑う。綺麗に、妖しく、美しく。
「お前も綺麗だよ」
「…嘘ばっか」
「嘘じゃねェ。おれに見惚れて堪んないって顔したお前は、極上のいい女だ」
「ばか」
「…口、開けてよ」
「……」
「嫌?」
ふたつの影が重なったのを、月明かりだけが照らしてる。
Special Thanks kaito!
110315/ten