くわえていた歯ブラシがぽろりと落ちた。だってびっくりした。朝っぱらから戸を叩く音がして寝惚けながら出てみれば、そこにいたのは監獄にいる筈の彼だったのだから。
「相も変わらずひでェ顔だ」
クハハ、と笑う彼を、クロコダイルを、幻なんじゃないかと思った。そりゃあクロコダイルは強いし(麦わら海賊団に負けたけど)能力者だし(水に弱いけど)凄い奴だって知ってるけど、あの監獄だ。インペルダウンだ。脱獄なんか出来るはずがない。でも今目の前にクロコダイルはいるのは紛れもない事実だ。ここで「あー夢か」と言う程寝惚けてはいない、ていうか目も覚めちゃった。取り敢えず落ちた歯ブラシを拾って部屋の中へ引っ込む。口をゆすいで顔を洗った。首からかけたタオルで適当に拭く。よし、私は正気だ。これは夢とか幻とかそういうものじゃない。そう確認した上でリビングに戻れば、クロコダイルはテーブルに着き私が自分用に用意したコーヒーを飲んでいた。分かっていたけど、やっぱり現実なのか。
「…なんで?脱獄したの?」
「色々あってな」
「脱獄出来た、の?」
「出来たからここにいるんだろう」
少し寄り道したがな、とコーヒーを啜るクロコダイルは傷だらけだった。数日前に海軍本部で戦争が起こったことを思い出す。まさかこの男、参加してきたのだろうか。クロコダイルならやりかねない。
だけど私が気にかかったのはそこじゃない。海軍と海賊の戦争なんて一般人の私からしてみればどーだっていいことだ。私が気にかかるのは、頭にきたのは、そこじゃない。
「脱獄出来たなら、なんで」
「あァ?」
「なんで、逢いに来なかったの」
首にかけていたタオルをクロコダイルの顔に目掛けて投げ付ける。タオルはクロコダイルの顔に当たることはなく、砂にまみれて床に落ちた。サラサラと輪郭を形取ったクロコダイルの目は奇麗にまんまる。何故こんな仕打ちをされなくてはいけない、そんな顔だった。私は彼が七武海だろうがバロックなんたらのボスだろうが怖くない。構わない、何者だろうが好きでいると誓ったのだ。そんな私達はいわゆる恋人というやつで、浅い仲でもない。唇も肌も重ねた。クロコダイル以外は有り得ないとさえ思った。だからクロコダイルが監獄に入っても私は彼だけを想い続けた。二度と逢えなくたって構わない、この想いは本物だから。そう、思っていたのに。
「私が毎日、どんな思いでいたと、思ってるの」
「……」
「脱獄出来たならなんで、もっと早く、逢いに来ないの」
「……」
「ねえ、聞いてるの」
「泣くな」
うるさい、泣きたくもなる。なんであんたってそうなの。自分中心で我が儘で身勝手で、ほんとう馬鹿みたい。甘えないでよ、私だって甘えたいのに。散々喚き散らして私はぼろぼろ泣いた。珍しく困ってるみたいでクロコダイルは何も言わない。でもガタンと椅子が動く気配がして、すぐに息が詰まった。私はクロコダイルの腕の中にいた。
「もう言わねェ。泣くな」
「…逢いたかったのは、私だけなの」
「逢いたかったから来たんだろう、理解しろ」
「…手当てしようか、っえ」
素直じゃないけど、これがクロコダイルだ。そういう男なんだ、『逢いたかった』と言わせただけでも上出来じゃないか。久し振りの感触に頬を緩ませて、彼が傷だらけなのを思い出した。薬はあったかな、包帯は足りるかな。そう思って身体を離そうとしたら、クロコダイルの右手がぐいっと腰を引き寄せた。そのまま執拗に撫で回してくる。背筋がぞわりと粟立った。な、なに、これは。バッと顔を上げるとニヤリと笑う唇。
「な、なななな、なに」
「甘えたいんだろう?」
「て、手当てを」
「お前が舐めてくれりゃあ治る」
「治る訳な」
「理解しろ」
抱きたいんだ、と呟いた声は低くて、熱っぽい。懐かしいのにどこか怖いその感覚にまた涙がこぼれた。クロコダイルの唇が涙を拭って、そのまま私のそれと重なった。久し振りのキスはしょっぱくて少し苦い。あぁ、コーヒー飲んだっけ。
残りはキスで話そうか
(おかえりもあいしてるも)
Thank You Karino!
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