「おや、ネスティさん」
「こんにちは」
医務室に現れた青年が軽く頭を下げる。私は微笑を添えているのに彼は相変わらず無表情だ。融機人であるネスティさんに正に相応しい言葉がある。それは『鉄面皮』だと思う。ネスティさんは表情に乏しい。私はネスティさんの無表情か困ったような顔、怒ったような顔しか知らない。ネスティさんが笑ったところなんて見たことが無い。いつも一緒にいるトリスちゃんはきっと見たことがあるのだろうけど、私は無い。悔しいというよりは悲しい。私はネスティさん専用のカルテをペラペラめくった。
「次の投薬には約28日くらい期間があるけど」
「当然でしょう。私は2日前ここを訪れたばかりです」
「じゃあ何故?投薬の多様は身体にひどく負担が掛かる」
医務室の管理人としてそんな危ないことはさせられない。だけど理由を促してもネスティさんは何も言わない。私から顔を逸らしてしまった。…ネスティさんが私に言いにくい理由と言ったらたいていアレしかない。カルテを棚に仕舞って椅子に座った。ネスティさんは突っ立ったままやっぱり何も言わない。ううむ。ちょっと待ってみようと思ったけどこれじゃ絶対話さないだろうなあ。大袈裟に溜め息を吐き出す。ネスティさんの肩が揺れた気がした。
「フリップ絡みかな」
「…そんな言い方は」
「あの人のやり方キライ」
フリップは私の父親だ。だけど、キライ。やり方が陰険でネチネチしていて気に食わない。アレが私の父親だと思うと虫酸が走る。苛々しつつ、ふと頭に浮かんだことに目を小さくさせた。ああそう言えば昨日聞いた噂、ほんとうだったんだ。デスクに肘をついてネスティさんを見上げる。
「トリスちゃんと任務に出るのだってね」
「はい。次いつ戻れるか解らないので薬の投与を」
「それ、あの人は許した?」
「…いえ」
「だろうね」
あの人が無駄な投薬を許すはずがない。いや、無駄ではないけどネスティさんにとって有利なことを易々とさせるはずがないのだ。ネスティさんが薬無しでは生きていけないと分かっているくせに。それなのに最低限の投薬しかさせない。そういう根性が私は、本気で気に入らない。私が苛々すると分かっているからネスティさんも私に父親の話をしないんだろう。バレバレだけどね。デスクの引き出しを開けて注射器を取り出す。ネスティさんが僅かに表情を曇らせたのが分かって少し面白いと思った。ベッドに座るように言えばネスティさんは素直に従ってベッドに腰を落ち着けた。
「短期間の投薬はさせられない。ネスティさんの薬は強力過ぎて危険だもの。その代わり効果が長引くように抗生物質を打っておくから」
「…貴女は何故」
「ん?」
「私を融機人だと知りながら、対等に扱うのですか?」
それはネスティさんが私に対する、初めての疑問だった。ネスティさんの顔は悲しそうで、辛そう。見ているのが苦しくなるくらいの表情をしていた。なんでだろう。なんで彼はここまで痛そうな顔をするのだろう。なんでそんな質問をするのだろう。そんな、分かり切った質問を。アルコールに浸した脱脂綿を取ってネスティさんの左腕をなぞった。血管に狙いを定めて一気に針を突き刺す。薬を注入してそっと針を抜いたら赤い血液が小さな丸い粒になって浮かんだ。それをジッと見つめて、口を開く。
「だって、ネスティさん」
「…はい」
「ネスティさんは、ネスティさんでしょう」
「…はい?」
「ネスティさんと私は同じ。対等で何がいけないの」
ネスティさんはちょっと機械が混じっただけ。それだけなのにどうして『別物』扱いしなきゃいけないの。私達は何も変わらないじゃないか。ネスティさんも私も赤い血が流れる。ほら、同じでしょう。だから私はトリスちゃんが『成り上がり』だと言われていたって対等に接する。トリスちゃんってちょっと怠け者だけど召喚術に関してはいいセンスを持ってる。すごい女の子だ。そんな子をどうして蔑まなきゃいけないの。私には分からない。ネスティさんの質問の意図も分からない。おかしなひと。真面目で堅物なひとは何考えてるか分からない。
その時だった。空気がふわりと、柔らかくなった。目を見張る。ネスティさんの唇が、三日月を横にした形に緩んでいたのだ。
「わ」
「? どうかしましたか?」
「ネスティさんが笑った」
「私が笑うことは可笑しいですか?」
「ううん、私は好き」
「…貴女は変わった方だ」
ネスティさんは注射をしてない方の手で口元を隠すとくすくす笑った。可笑しくて堪らない、と言わんばかりに肩を震わせている。ああなんだ。ネスティさんって、綺麗に笑うんだなあ。勿体ないなあ。いつもそんな顔をしていたらいいのに。ネスティさんはまだくすくすくすくす笑っている。落ち着いてきたらお茶に誘ってみようかな。ふと思って私は使用済みの注射器をごみ箱に捨てた。
(100514)