海は好きだ。青一色の世界は美しい。深く潜ればすべての音が遮断されてまるで世界から切り離されたような感覚がゾクゾクする。潜るのもいいけどただ流れに身を任せて浮かんでいるのも楽しい。沖の方でぷかぷか浮かんでいたら浜辺まで戻ってきたこともあった。嗚呼、私も青に滲んでみたい。泳ぐでも何をするでもなく海にいるのが好きだった。

そんなある日のこと。いつもと同じように海にぷかぷか浮かんでいた。浮かんだ後にゆっくりゆっくり深く海に沈んだら、突然腕を掴まれた。まさか自分以外の人間が外にいるとは思わなくて、驚いた私は溜めていた酸素を全て吐き出した。くるしい、やばい。誰が私を掴んだの。目を開けると塩水が目に痛いだけだった。私の腕を掴んだ、多分大きな手だと思われるものが私を強く引いた。私の身体はみるみるうちに浮上して光を感じた時には既に海面に顔が出ていた。新しい酸素を胸いっぱいに吸って激しく咳込む。び、びっくりした。死ぬかと思った。


「おい!」

「っ、…?」

「しっかりしろ!」


急に耳元で大きな声が聞こえた。それは低くて男のものだと解る。よく見たら私の腕を掴んでいる手は逞しい、目の前にある胸板も厚い。男の人は私の両脇に片手を差し込み素早く泳ぎ出した。ちらりと顔を見ると三十代か四十代前半くらいの男の人だと解った。さっき言われた言葉を頭の中で復唱する。この人、私が溺れてると思ったのかな。結構沖の方に出てたし。下手に抵抗すると泳ぎにくいだろうしされるがままにしておこう。男の人はあっという間に浜辺まで泳ぎ切って私を抱き抱えた。お姫様抱っこだ。それからそっと浜辺に下ろされた。


「おい、おい!」

「…はい」

「…あ?」


ぱちっと目を開けると男の人は怪訝そうに顔を歪めた。そんな顔されても困る。溺れてると勘違いしたのはそっちの方だ。身体を起こすと男の人からじろじろ見られた。


「…溺れてたんじゃ、ないのか」

「はい」

「…悪い。はやとちりだ」

「いえ」


まあこの人は私を助けようとしてくれたんだし、この人は悪くない。髪をギュッと絞って前髪を掻き上げた。それから男の人を見上げる。首は太いし肩は広いしかなり筋肉質だ。こんな人ここらにいたっけ。男の人は私の隣に腰を下ろした。


「ここらの人間か?」

「家はアーケードの方ですけど、よく泳ぎに来るんです。…えと、お兄さんは」

「お兄さんなんて齢じゃねえよ。俺は夕飯の魚を捕りに潜ってたんだ」

「夕飯を捕りに…」


随分野生的な人だな。見たところ腰に魚を入れる網を括り付けているけどモリは持ってないみたい。素手で捕ってたのだろうか。それじゃまるで熊だ。この人すごい。私の思考を読み取ったのかおじさんは「モリはあそこに浮いてる」と沖を指差した。そっか。海に潜ってたら私を見つけて、その時モリを離したんだ。夕飯捕ってる最中だったのになんか悪いことしちゃったな。すみませんと頭を下げたら気にするなと返された。


「泳いでる最中邪魔して悪かったな」

「いえ、こちらこそ」

「さて、もうひと潜りして来るか」


おじさんは立ち上がって海へ歩き出した。私は何をするでもなく、ぼんやりとそれを眺める。

おじさんの背中に広がる龍に息を呑んだ。


「わ」

「…あぁ、悪いな。驚いたろう」


おじさんは苦笑して背中を押さえながら振り返った。びっくりした。この人、ヤクザだ。じゃないとあんな刺青背負ってる訳がない。体格がいいのもその所為か。でも、なんでヤクザが海に。この人も海が好きなのかな。

それにしても嗚呼、すごく綺麗な龍だ。海に映える。


「おい?」

「…え、あ、はい」

「…珍しいな。刺青、怖くないのか?」

「怖くないです」

「……」

「綺麗です、すごく」


龍は空を飛ぶ想像上の生き物だっただろうか。それはさぞかし神秘的な光景だろうけど海を泳ぐ姿も美しいと思う。青に滲む龍は、きっと綺麗だ。私はそれがおじさんの背中だということを忘れて見惚れていた。手を伸ばして龍に触れる。鱗も髭も双眸もすごく繊細で、雄々しい。外国のタトゥーより日本の刺青の方が綺麗だというのは間違いないだろう。本当に綺麗。綺麗だ。


「…気は済んだか?」

「…あ、すみません」


おじさんはくすくす笑って海へ入って行った。沖縄の海は遠浅だから龍が隠れるのはまだまだ。それでも遠ざかる龍が、すごく名残惜しかった。


「あの!」

「ん?」

「魚捕るとこ、見ててもいいですか?」

「…あぁ、いいぜ」


おじさんは背中を向けて手を振った。渋い、かっこいい。すごい。龍が海に潜る。泳いでいく。思った通り、綺麗だった。

海は好きだ。
いつも私を楽しませる。












(100203/にやり)
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