「海に行こうよ」
夏休みももうすぐ終わり。
先週で海水浴シーズンも終わってしまった、そんな時期になってサエは私を海に誘った。
海水浴客が去った海は人もまばらだった。
まだ撤去されていない海の家で片付けの作業をしてる人たちがいるくらい。
それでもまだまだ暑い。
何も遮るものがない陽射しはいっそ暴力的なほどに眩しくて、私は目を細めた。じりじりと容赦なく瞼まで灼いていく太陽。
「うみ、帽子ちゃんと被って」
サエの手が伸びてきて、私の帽子のつばをぐっと下げて深く被らせる。視界が少しだけ狭まって、眩しさもちょっとやわらいだ。
「サエ、また背が伸びたね」
見上げながら言うと、サエは「そう?」と首を傾げる。自覚は無いみたい。
「伸びたよ。だって、腕の角度とか、声がする位置とか、違うもん」
「角度…位置…?」
「私に触るときの腕の角度と、私を呼ぶときの声の位置」
「そう…かな?」
「そうだよ」
夏の間、ほんの少しの間に、また身長差が開いちゃったなと思う。もう隣を歩くサエを「見上げ」なきゃいけない。
身長だけじゃなくて、腕、また逞しくなったなとも思う。筋肉がついてゴツゴツして。日に灼けて。
顔もちょっと変わった。幼さが抜けて精悍になった。以前はしなかった表情、するようになったり。
しっかり帽子を被りUVカットの長袖カーディガンを着こんでる私とは違って、サエはタンクトップにハーフパンツといういかにもラフな恰好だった。帽子も被ってない。多分…というか絶対、日焼け止めすら塗ってない。素肌を太陽の元にさらして平気な顔してる。
タンクトップの線と少しだけずれてる日焼け跡。夏中着てたユニフォームの跡。くっきり残ってる。
私とはちがう生き物を見てるみたいだった。
ざばーん、ざばーん、って波の音がする。
慣れ親しんだ海の音と匂い。今日は少しだけ波が高い。
「こんなに暑いのに、海に入れないなんて勿体ないな」
サエが苦笑しながら呟く。
そんなの分かってて来たくせにって思ったけど言わなかった。代わりに頷いてあげた。
「足だけでも浸けたいよねえ」
「ほんとにね。すぐそこに海があるのに」
「この季節はねー」
私たちは顔を見合わせてやれやれ、と苦笑い。
海水浴シーズンじゃなくても、それこそ一年中ズボンの裾をまくって海遊びしてる私たちだけど、この時期だけは駄目。クラゲちゃんがいるからだ。
地元っ子だけにクラゲの怖さはよおく知ってるので、どんなに海に入りたくても今だけは我慢する。
今年も海水浴に来た都会の人がいっぱい刺されたらしいし。
「あーあ。うみの水着姿が見られなかった。ちっとも遊べなくてごめんな」
半分冗談交じりに、半分本気でごめんねって顔してサエが言う。
この夏、デートっぽいこと全然できなかった。そのことを言ってる。
私は勢いよく首を振った。謝ってほしくなんかない。
「凄いもの、見せてもらったから。いいの」
夏の。テニスの大会。地区予選、関東大会、そして全国大会。
とても暑かった。いっぱい笑ったり泣いたり。私は応援席にいただけだったけど、眩しくて眩しくていっぱい灼かれた気がした。真夏の海辺の太陽よりもきらきらしてた彼らに。
「一生忘れないよ。お疲れさま、サエ」
笑ったら、サエも「うん」って笑った。歪んでない、きれいな笑顔だった。
…夏の終わりになってようやく海に誘ってくれたサエは、やっといつものサエに戻りつつあった。
あの大会ではいろんなことがありすぎて。
あからさまに落ち込んだりはしないけど、やっぱりみんないろんなところが傷ついてて。
でも、今こうして海を眺めるサエの顔は穏やかだ。
「引退かあー」
その単語がサエの口から出てびくっとしたけど、サエは笑いながら「でもなあ、まだまだ頼りなくて。もう少し居座ってやろうかなあと思ってる」と続けた。
「…嘘ばっか。サエがやりたいだけでしょ、テニス」
辛うじて涙声にならずに返せた。
私の安堵も知らずにサエは「あはは、ばれた?」と爽やかに笑ってる。
…ばか。
ほっとしたのとちょっとむかっとしたのと混ざって。私は背伸びして、それでも届かなかったから日焼けした腕を強引に掴んで引っ張って、驚いた顔のサエのくちびるに噛みついた。
「テニス辞めたら別れてやる」
たくましい胸をどんっと押して離れながら言ってやると、反対に強い力で引き寄せられ抱き締められて。
「……それは困るな」
ちゃんとした、深い、長いキスをされた。「ありがとう」って掠れた声で聞こえた気がした。
ざばーん。ざばーん。波の音。
「海、きれいだね」
「うん」
多分私とサエが今考えてることは一緒。今すぐ海に飛び込みたい。
「…クラゲ、やだなあ……」
項垂れながらこぼすと、サエはくすくす笑いながら「でもうみ、クラゲ好きだよね」と励ますみたいに頭を撫でてくれた。自然にそういう仕草できるくらい、やっぱり背が伸びたんだなあと思う。
「クラゲのビジュアルは好きだよ。ふわふわして、半透明で、きれいだしかわいいし。毒さえなければ、海に入ってクラゲと戯れたい」
「ははっ。…直接戯れるのは、無理だけどさ」
サエが私の手を取った。なに?と見上げると大好きな眩しい笑顔がそこにあった。
「水族館行こうか」
「…水族館? え? 今から?」
確かに、ここからバスで少し行った海沿いに小さな水族館があるけれど。
「クラゲの水槽の前でデート、やり直そう」
「……」
そう来たか。
「水族館の中ってさ、少し海の中みたいな気がするだろ」
ほんとに。海が好き過ぎるんだから。しょうがない。
私はつられて笑い出してしまいながら、いいよって頷いた。手を絡めて。
歩き出すと陽射しが首筋を灼く。
夏はまだ、もう少しだけ続く。