サボはいつも先に起きている。 確か初日の朝もそうだった。 だから私の朝は遅刻気味に始まる。 目を擦りながら横を見れば、リュックを枕にして静かに本を読んでいて、起きた私と目が合うと「おはよう」と一言。そしてまた本に視線を戻す。 そんな一人の子供を見て、普段は作らない朝御飯への焦り。起き上がってはみるものの、全く頭が回らなくて数分立ち尽くしたりする。 「どうかした?」 「うん。…おはよう」 不思議そうに見てくるサボは、 その間に本を閉じる。 キッチンを抜けて洗面所に向かう背を追って、なんとなくそちらへ。顔を洗っているから先に歯ブラシに手を伸ばして、あのメロン味を乗せた。 「そっち使うの?」 「うん」 「じゃあ俺も使おうかな」 「どうぞ」 「お菓子みたいな味だ」 「確かに。もう御飯いらないなぁ……………ウソウソ。もう味噌汁とご飯だけでいいよね」 「手伝っていい?」 「嫌」 「朝のナツは特に不機嫌だね」 特にって何だ。 私はこんな子供相手に、 そんなに不機嫌なんだろうか。 「ねえ、サボは施設に来る前はどうしてたの?」 「言わない」 「ふーん。一応ごめん」 「いいよ。そのうち気が向いたら話すから」 洗面所の壁に背を預けて、その横顔は笑っている。でも何処か、思い通りにならなかった時の子供みたいな匂いがした気がするのは、この歯磨き粉のせいなんだろうか。 「仕上げ磨きとか、してあげた方がいい?」 「………流石にないよ。それは」 適当な朝御飯を終えて、 お昼は少し遠いショッピングモールまで歩いて行く事になった。 用があるわけじゃないけど、しばらくここにいるのに家にいるのは可哀想だ。それにこの子がここへ来たのは、住むことになったあの山間の農村以外の街を見たいからって理由だし。 「…なっ!、…あのさ……脱ぐ時は先に言ってくれないかな…」 「…ああ。ごめんごめん」 ぐりんと背を向けたサボを見て、脱ぎ掛けの服をそのままに、ジーンズを引きずってキッチンに引っ込む。 ホントは正直、面倒くさい。 自分の家なんだから好きにさせろよと思うけど、特に不機嫌だと言われたのをまだ気にしていたので、今回は大人しく譲歩する事にした。まあどうせ直ぐに慣れるだろう。 外は昨日よりも暑かった。 風もなく、 ただただ陽が照りつけて。 次はこっち、あっちと簡単に説明しながら歩き、差し掛かった広い一本道で、私を追い越して50メートル程先で立ち止まったサボは、大きな商業施設を取り囲むビルや陸橋、上を走る高速を眺めていた。 「帽子かぶりな。熱中症になる」 「いいよ。これ以上空が隠れたら」 隠れたら、俺は。 それ以上の言葉は排気ガスで消えた。 サボがうちに泊まってから何日経ったろうか。もしかすると、そろそろホームシックの時期なのかもしれない。田舎の広い広い空が、こんなコンクリートジャングルではなく夏に蒸された土の匂いが、恋しくなったのかもしれない。 「もう帰りたい?」 「ああ」 「帰ってもいいよ?迎え呼ぼうか」 「帰れないんだよ」 引き取られ、新しい家族となった親戚の家でサボがどんな関係を築いているのかは知らない。 ただ、 どうしていいか解らなかった。 こんなにも寂しげな顔を初めて見ても、私は何もしてやれない他人。 だったら惑う間はうちに居なよと。 帰りたい、帰れない。 その葛藤を見守る、 新しい居場所になれやしないかと。 「青だよ。行こう」 立ち止まる小さな手を掴んで、ボーダーラインを一段飛びで越えていく。次の白に立つ度に子供な自分を振りかざして、一生懸命大丈夫だよを伝えたかった。 ウインドウショッピングをしたり、ゲームセンターで人形を取らせてみたり、涼むために何時間も居座り続けた後、何も考えずに食材を買い込んでしまって、帰りは二人で袋をぶら下げて長距離を歩いた。 家に着いたのはもう夕暮れ時で、 ぐったりした私はクーラーをガンガンに効かせて、荷物も片付けずにリビングに転がった。キッチンからは冷蔵庫を開ける音がする。きっとサボが野菜を仕舞ってるんだろう。本当に私なんかより随分と良い子だ。 「疲れた?大丈夫?」 隣に転がり、寝そべったサボが私の顔を覗き込んでくる。からかったり心配してみたりする顔であったとしても、そこに昼間の寂しげな色はもう無かった。 「久々にあんなに歩いた…死にそう。御飯くらいは作れるからもうちょい待って」 弱いな、と隣で笑うサボを、 この時初めて可愛い奴だと思って。 頭を撫でようと、 手を伸ばしてみたけれど。 遮るように電話は鳴った。 陥れる恐怖から逃げたつもりでいた私に襲いかかるコール。画面に表示された名前を見てフリーズするも出ない訳にはいかなくて。 不思議そうに見上げるサボから逃げるようにベランダへ飛び出し、非番の上司から、お得意の威圧とストレス発散を散々聞いた。 女は弱いが頭も弱いとか、 使い物にならないとか、 ネジが少し足りてなかったな、等々。 世間一般の女がどうかは知らないが、事実だから何も返す言葉はない。ただ今までの様に流すけど退職届も受理され、この休みが終わればそのまま退職となる、確実な逃げ切りコースがあったとしてもダメージは蓄積する。 何をやったって駄目な人間だ。解っているから消化できない。その間にも浮かぶ忌まわしい顔が私を圧する。だから動けなくなって、リビングの隅で小さくなって。あろうことか泣いていた。膝と額をくっつけて、見られないように隙間を埋めた腕に涙がつたっていく。 最初は本を捲る音が聞こえていた。 ぺらり、ぺらりと不規則な見ないふりに安心して、時を刻む音を追いかけて。そのうち涙は引っ込んだ。しかし次は顔を上げるタイミングを見失ってしまった。 本を閉じたんだと思う。 傍には人が居る気配がして。 隙間からちらりと覗けば、笑うでもなく、同調するでもなく。ただ見ているだけの子供と目が合った。何を考えているのか解らない瞳ながら嫌な気はしない、不思議な、不思議な時間がただ流れ。 突然背を向けたサボはキッチンへと向かう。そこで初めてああ、お腹が空いていたんだと気が付いたけど、手際の良さそうな音を聞いてそれに甘える事にした。 切る音、焼く音、殻を割る音。またオムライスを作っているんだと直ぐに解る。そして卵の匂いがした数分後、食べようと手を引かれて立ち上がったテーブルの上に、スマイルマークの書かれた、私好みの多めのケチャップを見て、大いに笑った。 「やっと笑った」 「くそーやられた。こんな子供騙しに」 「何かあったの?」 「うん、ちょっと痛い所突かれただけ」 「ふーん」 「まあ、大人って孤独ですよねーって話」 一丁前に疎外感でも感じているのか、急にむすっとし始めるから、慰めてやろうと皿を取り上げた。 「ほら、私の気持ちを書いてあげようねぇ」 ありがとうに大きなハートを添えて、 中まで綺麗に塗りつぶす。 「かけ過ぎだから。それ」 この歳の子は思春期なんだろうか。 パンツの時も、仕上げ磨きを聞いた時も、風呂は一緒に入った方がいいのかと聞いた時もそうだったけど、よく赤面している気がする。 「作るの上手いよね。私より美味しいんじゃない?コレ」 「そんな事ないよ」 「またまたー」 「ナツの味噌汁、美味しいよ」 「あれはワカメ様の出す海の力によるものです」 「ナツの本気のやつ食べてみたいな」 「考えとく」 しかし。こうして誰かがいると、 自分の事がよく見えて、どうも。 私が何かしてやらないといけない筈の小さな子。その子供は時折、この大人である私の何かを拭おうとしているように見える。 メロン味の歯磨き粉も、このスマイルマークの晩御飯も。もしかしたら朝の、あのタイミングで閉じられる本の音も。起きがけの回らない頭で「時計よ待ってくれ」と立ち尽くす私を、一日の始まりまで誘導しているのかもしれない。 それが嬉しく思える自分と、 やめてくれと突っぱねる自分と。 近頃それが折り合いつかずに喧嘩を始める。この子が来てから、見ないようにしていた小さな自分に気が付いて。 「ナツ、散歩に行きたい」 「別にいいよ」 その日の風呂上り、 堤防に向かって夜の街を横断した。 街灯は歩く私だけを照らし、数メートル先を走る少年は「昼間の道はここへ繋がってるのか」と時々土手を登り、気まぐれに石を拾い、夜の川面で水切りを始める。その姿を真似てみればなんとも難しく、石は一度も跳ねずに沈んでいった。 「こうするんだ。…原理…解る?」 「回数でカバー」 何度投げても駄目で。 だから大きめの石を投げて憂さ晴らしして、もういいやと前にいた子供を追い越していく。少し遅れて笑いながら駆けてくる足音は気にしないフリで、大人の歩調でずんずんと。 上の道を通り過ぎる車は 私達が階段を上がる頃に左折して、 小さな影を大きく伸ばし。 大きな影を曲げながら縮めていく。 「アイス、買いに行こっか」 ちぐはぐなシルエットを並べて買いに行ったのは多分。そんな小さな自分と、一抹の不安を精一杯誤魔化すための。 【子供騙しのアイス】 【一抹】 絵筆のひとなすり・ひとはけの意から。ほんのわずか。かすか。「―の不安」 [もくじ] [top] |