その男のその声は、 甘い音色を持っていた。
もう二度と会うまいと高を括っていたら見事に不意を衝かれ。全くもう、本当に。今日も世界は不条理だ。
運命とか、因果とか。 そういった物に囚われる時 こんな私でもそれなりに恐怖を感じる。 自由になって 不自由を感じるくらいなら 私は籠の鳥で十分だ。
緑の丘の上、 絵に描いた様な赤い屋根の家に住み、 鶏が鳴く頃に目を覚まして暁を眺める私の一日は、日の出から日の入りの様に穏やかに流れる。
過ごす毎日が楽しい。 ぐつぐつ鳴る鍋の湯気に鼻歌を乗せ、 小鳥達の囀りに微笑みを一つ。 昼間は街へ出かけ、 図書館前の噴水で借りた本を開き、 水の弾ける音を聴きながら思いを馳せ。
水色の空に、蝶が飛ぶ。
そんな、絵に描いたように平穏な日々を過ごしていた。しかしそんな日々に突如として、さした彩り。
拾って貰った本が扉絵で開き、子供の悪戯で塗られたのであろう、黄色い筈のカナリヤを見て君は笑った。
「似てますね、貴方にとても」
青く塗り潰された隙間から黄色が覗く。そんな色合いを君に重ねて何気なく呟けば、そんなに可愛いものじゃないと目を細めて。
噴水の飛沫がその微笑みを煌めかせたのかもしれない。誰かがこっそり隠していた、秘密のオルゴールを見つけたような気分になり。 私の毎日は輪を掛けて輝き始めた。
君が立つと言った別れの日、 触れぬ様にといつもは泳ぐだけだった君の手が、初めて私の頬を撫でた。部屋の隅に綴じ込められた腕の中で、レースのカーテンが木漏れ日の様な輝きを溢すから、その幻想にあてられて首筋まで手を伸ばしてしまい。
少し目を見開いた君は、引き返し方を頭の隅に追いやっていたのだろう。躊躇いがちに距離を越えた唇から甘い溜息と名前がこぼれて重なり。ドキドキしているのは私だけだと思っていたのに、君の首に顔をうずめた時、同じような速度で脈打つ音が聞こえて蜂の巣にされた。
世界は広いと知りながら、小さな島で波風立てず幸福に暮らしてきた。だけど、穏やかな日々だけど、たまにはいいのかしらと自分を許し。私もまた、触れてみたい欲望に負けたのだ。
しかしその手が胸に触れた瞬間、突然すべてが妙にリアルになっていくのを感じて哀しくなり、儚げな君の温度を感じられた感動に痛みを隠して、泣きながらに抱かれた。絵に描いた様な幻想が、夢が、覚めてしまうと感じたのかもしれない。
さよならも見送りも無く、 別れを日常に乗せられるほど 大人だった私達は元通り、 直ぐにそれぞれの人生へと帰った。
異なる世界を生きる者達が、 すれ違い様に微笑みあっただけ。
それでも私は 幻想を見る事を、やめはしなかった。
緑の丘の上、絵に描いた様な赤い屋根の家に住み、鶏が鳴く頃に目を覚まし暁を眺める私の一日は、今も変わりなく穏やかに流れる。
あの日を思いながら毎日を楽しく過ごす。 ぐつぐつ鳴る鍋の湯気に笑顔を思い浮かべ、 カナリヤの囀りを、耳に残る甘い声と重ね。
街へ出れば君の居た場所を通る度に 本を読む姿が浮かび、「ねえ、その本には何が書かれているの?」と問いかけて、まだ彼はここに居るんだなとしばし微笑み、立ち尽くし。
虹色の空に蝶が舞う。
そんな絵に描いたような幻想の日々を、 それはそれは幸せに過ごしていたのに。
「今日は本持ってないんだね」
「ああ。両手が空いてないと拐えないだろう?」
まだ同じ君なら良かった。
月日の流れは惑う君まで流したのか。 あの日と同じ場所で、同じ本を拾ってくれた男は扉絵の青い鳥のように美しくは映らない。
大切に大切に愛でてきたのに、 綴じ込めていたのに、
強気な言葉に桃源郷が崩れていく。
もう二度と会うことはないだろう。 いや、たとえそんな機会が訪れたとしても、二度と会うまいと思っていた。
しかしこの男は、カナリヤの甘い囀りには程遠い、色のある声で私をたぶらかし、連れ去ろうとする。運命や因果の残酷さに囚われるのはうんざりなのに、なんて世界は不条理か。
その手を取れば全てが突然リアルになる。胸ときめかせるのは青い鳥なんかではなく愛した人なのだと。
去り行くかもしれないその日までリアルに見せて、幻想ばかり見ていたい私に闇まで見せる、そんなものを、誰が掴みたいと思うのか。
世界はさぞかし広いだろう。 でも私はこの小さな島に居たいのだ。 これを檻と言うのならそれでもいい。
あの日の君がくれた幻想の中で、 永遠に生きていきたい。
自由になって 不自由を感じるくらいなら、 一生を終えるまで籠の鳥でいたいのに。
「我侭に奪っておいて拐いもしなかった、あの日の子供な自分を悔いてる」
だから次は、 余す事なく。全てを、
「意地でも」
迷う事なく触れる手は、軽々しく私の惑いを追い越して、無理やり腕の中へ閉じ込める。
この男は誰なんだ。 あの日の君は何処へ消えた?
オルゴールが聴こえない。
あの木漏れ日も、 カナリヤの囀りも、噴水の飛沫も、 あの日のようには輝かない。
そう知っているのに。解っているのに。
過去の温度を返さない真逆の熱が 意思に反し、あの日、 置き去りにした心を融解していく。
【 Fatal of the Opera 】
オムファタルか怪人か。
目の前には、 幻想を無惨に打ち砕く、 私の知らない君がいる。
▼ ファムファタル (仏:Femme fatale) 男にとっての運命の女、運命的な恋愛の相手、もしくは赤い糸で結ばれた相手。 また、 男を破滅させる魔性の女(悪女)
オムファタル (仏:Homme fatal) 運命の男。あまりにも魅力的で、引き付けられずには入られない危険な男
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