私たちはそれっきり一言も喋らなかった。大谷さんは猫背になって俯きがちにページをめくっているだけで、私は相変わらず小さくしゃがんだまま、時折大谷さんの背中をちらちらと覗き見ているだけだった。
 静寂に包まれた空間に二人きり。本来なら今すぐにでも出ていきたい気まずさだったけれど、ここは私の場所だから譲りたくない、という変な意地があった。

 そもそも、どうして大谷さんがここに来たのかがわからない。少なくとも、私の知る限りではこの場所に私以外の誰かがいるところなんて見たことがない。狭いし汚いし、日の光なんてほとんど入らない。誰にも見つからない、こんな所に人がいるとは思わない。だからよかったのに。
 
 ――もしかして、大谷さんも私と同じなんだろうか。誰にも見つかりたくないから、こんな所に一人で来たんだろうか。今までも、私がいない時間にこっそりと来ていたのかもしれない。こう言ってはあれだけど、大谷さんってあんな見た目だし、いろいろ事情があってもおかしくないと思う。

 そんなことを考えていたら、大谷さんに勝手に変な仲間意識みたいなものが芽生えていた。似たような人が身近にいると思うだけで、体が少し軽くなったような気がした。
 

 私は大谷さんの背中を見ながら、いろんなことを想像した。
 もしかして、今日このタイミングでここに来てくれたのは私のためだったりするのかな、とか。どこかで見ていた大谷さんが、私のことを気にして追いかけて来てくれたのかも、とか。なにも言わないけれど、本当は私のことを心配してくれているのかも。慰めようとして、ここにいてくれるのかもしれない。
 ありえないとわかっていても、そんなどこかの少女漫画みたいなことを妄想するだけで、私の中の汚いものが少しずつ薄らいでいくような気がした。


 ――大谷さんの背中を、もうどのくらい見つめていただろうか。
 ふいに顔が熱くなって、視界が滲んできて、気付いたら私は、抱え込んだ膝に涙を落としていた。自分でもびっくりして、大谷さんに気付かれないように急いで拭ったけれど、涙は次から次へと溢れてきて、もう間に合わなかった。
 私は膝に顔を埋めて、唇を強く噛んだ。大谷さんの背中はもう見れなかった。
 

 必死に声を殺したけれど、多分、大谷さんは気付いてる。気付いているけれど、気付かないふりをしてくれている。
 ――なんて、これも全部私の妄想なんだけど。
 でも、大谷さんがいるこの空間は、いつもと違ってなんだかとても温かいような気がして、だからきっと、大谷さんはとても優しい人なんだと、私は静かに確信したのだ。



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