弱いが勝ち

交番前の掲示板に貼ってある「葛西善二郎」の指名手配写真を見た時、何だか複雑な気分になった。その「葛西善二郎」は、いかにもって感じの目付きが悪い犯罪者で、知性も伴っていない頭が空っぽの極悪人って雰囲気だ。此方を睨む瞳にも覇気は無い。ぎらぎらした貪欲な悪意も、瞳の奥に潜む確かな知性も何処にも読み取れない。強者である事だけを馬鹿みたいに強調した、恐い顔。とにかく、写真の男は私が知る葛西善二郎ではなかった。まるで別人。これでは捕まるものも捕まらないだろう。

「どうかしましたか」

「ああ…。いえ、何でも」

交番から顔を出した警官に声を掛けられてしまったので、微笑んで首を横に振る。ついでに、善二郎の写真を指差して「恐い顔だなぁと思って」と付け加えておいた。まだ若い警官は、私の指差した先にある手配写真を見て、納得したように苦笑し「そうですねぇ」と呑気に頷く。

「その放火犯、つい先日もビルを燃やしたみたいですよ。恐いですね」

若い警官は、まるで自分が発見した手柄であるかのように胸を張って「葛西善二郎」の手配写真を睨み付けた。私は「そうですか」とだけ答える。
警官は拍子抜けしたように肩を落とした。何か別の言葉を期待していたように見える。警官との雑談に興味は無かったので、私はその場で踵を返し、歩き出す。

「そろそろ暗くなるので、気をつけて」

背後から警官の優しげな声が追い掛けてきた。どうやらあの警官には、私が夜道を恐がって歩くような守るべき弱い女に見えているらしい。恐らく私も、「葛西善二郎」に負けない程度には人を殺しているとは思うのだが、凶悪で強い犯罪者には見えないようだ。
家路につく小学生達とすれ違う。無邪気な笑顔で「また明日ね!」と手を振り合って、友達に別れを告げている子供達。明日も明後日も、そのまた次の日も、全く同じ平和な日が訪れると信じて疑わない笑顔だ。私は、自分がそんな笑顔を浮かべていた時期があったのかどうか記憶が無いから、幼い子供を見ると、全く別の生命体に見える。
黒いランドセルを背負った男の子と、赤いランドセルを背負った女の子が競争するように私の横を駆けて行って、その少し後ろを、水色のランドセルを背負った女の子が危なっかしい足取りで駆けて行く。……と、水色ランドセルの女の子が、私の真横で派手に転んだ。私は思わず足を止める。女の子は、倒れたまま起き上がらない。どうしたんだと思ったら、女の子は、地べたにうつ伏せになったままで、この世の終わりのように大声で泣き出した。……いったい何事だ。私は戸惑いながらも、女の子が背負っている水色のランドセルが薄闇に映えてとても綺麗だったから、それが汚れるのが嫌で、傍らに屈み込んで少女を抱き起こしてやった。しかし、女の子は全く泣き止まない。私は、女の子と関わった事を早くも後悔し始めた。その時、少し先を走って行った黒ランドセルの男の子が慌てて戻ってきて、「大丈夫!?」と、女の子に声を掛けた。途端に女の子は泣き止んで、笑顔すら見せる。男の子と競争するように走っていた赤ランドセルの活発そうな女の子が、少し先で呆然と此方を振り返っていた。

「ありがとうございました」

水色ランドセルの女の子が、いきなり私に向かって頭を下げた。そして、小さくて弱々しい掌を此方に差し出す。何かと思ったら、その掌には、飴玉が一粒乗っているのだった。水色の包み紙に包装された飴玉だ。お礼のつもりらしい。
私は少し躊躇って、飴玉を受け取る。こういう時に、どんな言葉を紡ぐのが適切なのかいまいちわからない。善二郎はそういうのが上手いから、きっと子供にも適切な対応をするのだろう。結局、私は無愛想に「どういたしまして」とだけ告げた。
女の子は私の無愛想も全く気にした様子も無く、男の子と連れ立って歩き出す。男の子が「――ちゃんは、偉いね!」と、水色ランドセルの女の子を誉める。彼女は控え目に笑う。赤ランドセルの女の子は、二人の数歩後ろを歩くだけで、もう何も喋らない。私は飴玉を自分の服のポケットに押し込み、子供達の純粋で残酷な駆け引きを見送ってから、なるほど、幼い子供も私と同じ人間なんだなと納得した。

+++

ゆるゆるした足取りで歩いて、公園に辿り着く。子供が遊ぶための遊具が設置された公園。敷地内を取り囲むように紫陽花が咲き乱れているが、見頃を少し過ぎているせいか、鮮やかな紫や青の中に、寂れた茶色い部分が目立って鼻白んだ気分にさせられる。もう日が沈もうとしているせいか、公園内に人はほとんど居ない。小学生くらいの女の子がブランコを漕いで、傍らには母親らしき女性が付き添っているきりだ。
私が公園に足を踏み入れると、母親の方がちらりと視線を向けてきて、私が向かった先を察すると、すぐに目を逸らした。木々が生い茂る公園の暗がり。誰からも存在を忘れ去られたかのような古びたベンチに、男が座っている。屋外、屋内問わず禁煙を煩く叫ばれるこのご時世に、彼は堂々と咥え煙草で紫煙を燻らせ、挙げ句、足許には躙った吸殻が大量に散らばっていた。

「善二郎」

傍らに立って名前を呼んでも、善二郎は私に視線すら寄越さない。ただ、微かに唇の端を吊り上げただけだ。だから聞こえてはいるんだと思う。私は黙って彼の隣に腰を下ろす。古いベンチは二人分の重みを受け止めて不吉に軋んだ。
ふわふわと漂う煙草の煙の向こう側に、善二郎の気怠げな横顔がある。私は、手を伸ばして彼の頬に触れた。火傷を負った赤黒い膚。ほんのりと熱を帯びているその火傷痕を指で撫でると、彼は、煙草を口許から外し、指に挟んで灰を地面に落としながら片頬を歪めて笑った。「どうした」と、彼の視線が問い掛けてくる。とても愉しそうに。
私は、そんな善二郎の表情なんかお構いなしに、指で彼の横顔のあちこちに好き勝手に触れていく。頬骨から、顎。かさついた唇。少し荒れているけど、柔らかい髪。退廃的で投げ遣りな横顔は、どちらかというと社会的弱者。瞳の奥に潜む貪欲な悪意や野性的な欲望は、慎重に観察しないと読み取れない。あの凶悪で強そうな指名手配写真とは似ても似つかぬ顔。
善二郎を観察しようと私が身を乗り出す度に、ぎいっ…と、古いベンチが悲鳴を上げるように苦しげに軋んだ。「火火ッ…」と、低い声で彼が笑う。遠くから「ほら、帰るわよ」と、母親が子供に呼び掛ける声が聞こえてきた。すっかり日が落ちて公園内の遊具も見えなくなってきたからなのか、それとも、ベンチに座っている怪しげな男女の雰囲気が子供に見せられるものではないと判断したからなのか。どちらにしろ、日が落ちた公園は、平和で平凡な母娘に相応しいものではなくなったのだろう。
遠ざかる大人の足音と、小さな子供の足音。完全に足音が聞こえなくなった頃、善二郎の腕が私の方に伸びてきた。煙草を指に挟んだままの彼の腕が私の腰を乱暴に抱き寄せる。私はされるがままに善二郎に体を寄せて、彼の肩に頭を預けた。

「変な気分になるだろ、そういう事されると」

「私はならない」

「そいつは問題だな」

私の髪に鼻先を埋めながら、善二郎は低く笑った。善二郎の顔を触ることにも飽きてしまった私は、先程、水色ランドセルの少女に貰った飴玉をポケットから取り出す。水色の包み紙の飴玉。飴玉を手渡してきた少女の笑顔を思い出す。この世で最も守るべき弱い存在だとされている子供。そんな子供でも、自分の利益のために駆け引きをするのだ。自分が持っている武器を最大限に利用して。

「なんだ、それ」

飴玉を掌の上で弄んでいると、善二郎が問い掛けてきた。私は「駆け引きの対価」とだけ答えて、小さな飴玉の包み紙の両端を引っ張って、包みを開ける。先程の少女が背負っていたランドセルによく似た、鮮やかで自己主張の強い水色の飴玉が包み紙の中から現れた。いったい何の味なのかわからないまま、口に放り込む。途端、舌の上にじゅわっと貼り付くような、まるで薬のような感覚が広がった。甘味を置いてきぼりにして口内がすうっと冷たくなる。サイダー味。

「美味しくない」

想像していた味とかけ離れていたので、思わず呟く。子供が持っていたくらいだから、もっと甘いかと思っていたのに。善二郎が指に挟んでいた煙草を地面に放り投げて、「火ャハハ…」と笑った。私は、彼が地面に落とした煙草を爪先で躙って火を消しながら、何が可笑しいんだと彼の横顔を睨む。口内で飴玉を転がすと、しゅわしゅわと痺れるような感覚が舌に貼り付いた。
善二郎が私を見下ろす。そして、私の唇を指で突いてきた。その指に促されるまま、薄く唇を開けて、水色の飴玉を乗せた舌を出す。一瞬、外気に晒された舌先がひやりと冷たくなったけれど、善二郎が身を屈めて熱く濡れた舌を絡めてきた。触れ合った舌先がすぐに熱を持つ。唇が深く合わさって口内は熱が籠もっているのに、飴玉が乗っている舌先だけが痺れるように冷たかった。善二郎の舌が口内に侵入して、中途半端な甘さを帯びた互いの舌と唾液が絡み合う。善二郎の舌が飴玉を器用に攫っていく。かちっ…と、前歯に飴玉がぶつかって、私の口の中から善二郎の口の中へ飴玉が移動した。飴玉と一緒に善二郎の唇も離れる。離れた瞬間、ガリッ…と鈍い音をさせて、彼は私の目の前で飴玉を噛み砕いてしまった。

「…ちゃんと味わってよ」

飴玉の味を確かめようともしなかった善二郎に理不尽さを感じ、彼の昏い瞳を覗き込んで静かに訴える。それが引き金になったかのように、善二郎の瞳に野性的な鋭い光が宿って、私がその鋭さの正体を確認する間もなく、彼がもう一度唇を押し付けてきた。あっという間に彼の舌も再び口内に滑り込んできて、何かを考えるよりも先に互いの舌は自然に絡んだ。噛み砕かれた飴玉らしき固い破片が口内に紛れ込んで、唾液に溶けて行方不明になる。舌先がやっと甘さを認識したけれど、それは飴玉の甘さなのか、彼が吸っている煙草の独特な甘さなのか、よくわからない。彼の舌は好き勝手に私の歯列をなぞって、これ以上は無いってくらいに深く唇を合わせてきた。息が吸えなくて、苦しくなってくる。痺れるような甘い熱が全身を駆け抜けて、それなのに、思考だけは別の場所に置いてきぼりにされたみたいに冷静で、駄目だ…と、抵抗した。腰を抱く善二郎の腕の力が強くなる。一瞬、身体中の熱がじわりと腰に集中したけれど、熱い身体よりも冷静な思考が勝ったから、顎を引いて彼の唇から逃れた。唾液が交わる卑猥な水音が響いて唇は離れていき、善二郎は意地悪く片頬を吊り上げて笑う。

「ほらみろ、変な気分になるだろ」

「……ならない」

「そいつは色々と大問題だな」

善二郎は拍子抜けするほどあっさり私の腰から腕を離すと、煙草の箱から一本取り出して前歯で咥えた。大きな掌で煙草の先端を覆い、火を点ける。私は、そんな彼の横顔を眺め、自分の口内に残っている微かな甘さを掻き集めるように舌先で味わう。そして、善二郎の肩にもう一度頭を預ける。
不意に、子供の笑い声が聞こえた。顔を上げる。公園の外の歩道を、家路につく親子連れが歩いていた。「危ないわよ」と、母親が子供に注意している。すっかり日が落ちて暗くなった道路は、弱くて小さな子供を歩かせるには危ないのだろう。人間は、自分より弱い存在を本能的に守りたくなるのかもしれない。そして同時に、自分より弱い存在に優しく接して優越感にも浸る。
先ほど交番で出会った若い警官の姿を思い出す。彼は、私を自分より弱い存在だと認識していたのだろうか。それならそれで、構わない。弱い方が目立たないのだから。
善二郎の指名手配写真にしても同じで、凶悪な放火犯が一般市民と同等に弱くて平凡な容姿をしているなんて誰も思っていないから、指名手配写真は凶悪で強そうな写真になってしまう。……いや。もしかしたら。

「善二郎」

「何だ」

「……何でもない」

不意に浮かんだひとつの可能性を問い掛けようとして、私は口を閉じた。もしかしたら善二郎は、指名手配写真のような凶悪で強そうな顔と、平凡な中年男性の顔を器用に使い分けてるんじゃないだろうか。どこにでも居そうな冴えない中年男が、まさか前科1000犯を超える放火犯だとは思われまい。だから善二郎は、鋭い悪意と強靭な意思を瞳の奥に隠して生活している。意図的かどうかはわからない。もしかしたら本能的に。…生き残るために?
けれど、それは私には関係ない事だ。彼が本当はどんな性質であろうが、突き止めても仕方ない。彼は葛西善二郎という一人の人間なのだ。私にとっては、ただそれだけ。
善二郎が咥え煙草のまま私の横顔に視線を寄越す。私が途中で言葉を止めたので、気になっているようだ。「言えよ」と、私の髪を一房掴んで、戯れに引っ張ってくる。子供みたいなその仕草に、私は笑った。

「子供も人間なんだなぁと思って」

公園の外を歩く親子連れの姿が見えたので、私は適当に答える。口内に残るサイダーの味を舌で探しながら、少女の笑顔を思い出す。小さな子供の、小さな駆け引き。水色ランドセルの少女は弱いけど、勝った。赤色ランドセルの少女は、強そうだけど負けた。
公園の外を歩いている親子連れは、子供がソフトクリームを持っていて、母親らしき人物が連れ添って歩いている。子供は、まるでトロフィーでも獲得したかのようにソフトクリームを高々と目線より上に掲げている。母親に強請って買ってもらったのかもしれない。近くにソフトクリームを売っている店でもあるのだろうか。

「ねえ、善二郎」

ソフトクリームが欲しくなってしまったので、私は子供を指差して善二郎を呼んだ。私も欲しい、と口に出そうとしたけれど、その言葉を呑み込む。善二郎が、あと3分後に世界が終わると宣告されたかのように真っ青な顔をして、絶望と困惑の表情を浮かべていたからだ。……いや、そもそも善二郎は、世界が終わると宣告されても笑って過ごしそうなので、彼がこんなに真っ青な顔をするなんて余程の事態だ。善二郎が咥えている煙草がじりじりと短くなって、灰が落ちそうになる。私は、短くなってしまった煙草を彼の唇から取り上げて、「どうしたの」と問い掛けた。

「ナマエ。お前…ガキが欲しいとか言い出さねぇよな?」

善二郎が片頬を痙攣させて私を見た。その目が、あと数秒で爆発する時限爆弾を目の前にしているかのように怯えているものだから、私はすっかり混乱する。質問の意味も意図もよくわからない。なんで私が子供を欲しがるんだ。何に使うの、あんな弱い存在。身代金目的の誘拐以外に用途が思い付かない。眉間に皺を寄せて考え込む。その途端、善二郎が「いや、駄目って訳じゃねーけどな…!」と、何故か慌てて否定の言葉を紡いできた。

「欲しいの?……誘拐してくる?」

とりあえず、公園の外を彷徨いている子供を指差して提案してみた。しばし、沈黙。善二郎が公園の外でソフトクリームを食べている子供を見て、次に、私を見る。そして、

「全部忘れてくれ、俺が悪かった…」

何故か善二郎は私に謝罪してきた。片方の掌で額を覆い、はあ…と、大きく息を吐いて天を仰いでいる。さっきまで顔面蒼白だったのに、今は一気に真っ赤になってしまった。何なんだろう、いったい。リトマス試験紙のごとく青くなったり赤くなったりしている善二郎に首を傾げながら、私は再び公園の外で笑い声を上げている子供達を見た。親に付き添われた子供達は、皆ソフトクリームを持っている。

「善二郎、ソフトクリーム欲しい」

子供達を指差して訴えると、善二郎は、そんなものはいくらでも買ってやるとばかりに頷いて颯爽と立ち上がり、「ほら、行くぞ」と私にも立ち上がるよう促してきた。普段なら「ガキっぽい」とか「いつでも買える」とか言って馬鹿にするくせに、今日は物分かりが良い。それどころか、安堵しているようにも見えてますます訳がわからなかった。
腑に落ちないながらも、私は善二郎と連れ立って公園を出る。いつの間にか新しい煙草に火を点けていた善二郎が、もくもくと煙を吐きながら、ある一点を指差した。公園を出て、大通りを挟んだ向こう側にソフトクリームを販売しているキッチンカーが出ている。なるほど、子供達はあそこでソフトクリームを購入していたのかと納得し、さっそく善二郎を引っ張って大通りを突っ切り、キッチンカーに走った。全体的にファンシーな色味で統一されたキッチンカーは、たぶん、私達にはとても不釣り合いだと思う。淡い水色の車体に、丸っこくデフォルトされた牛のキャラクターが描かれている。接客の為の窓部分は大きな跳ね上げ扉で、メニュー表が乗ったミニカウンターが設置されていた。店の前に立っているお洒落な黒板風のメニューボードに、

『土曜日はカップル・夫婦Day!数量限定特別メニュープレゼント!』

…と、白と赤のチョークで派手に書かれていたから、私は思わず善二郎に向かって確認した。「今日って何曜日?」。
ファンシーで愛らしいキッチンカーには絶対に似つかわしくない、白く濁った煙を吐き出していた善二郎は、かなり渋々といった感じで「土曜」と答えた。男性の店員が慣れた様子で窓から顔を出し「最後のひとつですよ」と、メニュー表を指差す。そこには、高級感溢れるショコラソフトクリームの写真が載っていた。ハート型のチョコレートがトッピングされている。美味しそうだ。
私は善二郎の腕を引っ張って、メニューを指差す。私達は夫婦でもカップルでもないと思うが、もらえるなら欲しい。善二郎が吐き出す紫煙に店員がちょっとだけ迷惑そうに眉をひそめた、その時。

「あっ…。終わっちゃったかな?」

背後から、不安そうな女の声がした。振り返る。私と善二郎の真後ろに、若い男女が立っていた。
女の方が、男の腕に自分の腕を複雑に絡ませて、男の腕も当然のようにそれを受け入れている。まるで彼等の腕自体が意思を持った別の生物で、ずっと交尾を繰り返しているみたいに見えた。……なるほど。これが正しい恋人同士かと奇妙に納得する。
女は、私と目が合うと大きな瞳を瞬いた。肩まで伸ばした赤みを帯びた髪と、大きな瞳が印象的な女。きりっと通った鼻筋のせいで気が強そうにも見えるけれど、整った顔立ちは美しい。20歳前後くらいか。女性と呼ぶには、まだ幼い。少女と呼ぶには、もう大人。

「すみません。これで最後なんです」

数量限定メニューを準備していた店員が、若いカップルに向かって謝罪した。どうやら彼らは、数量限定メニューを目的に来店したようだ。カップルの男の方が、残念そうに溜め息を吐いて女の様子を伺う。女は思案げに眉を寄せた後、店員に向かって柔らかく微笑んだ。

「そっかぁ…。仕方ないですね。また来ます」

その儚げで哀しそうな微笑を見て、あ、私の負けか…と、瞬間的に悟った。カップルの男の方が「ずっと楽しみにしてたのにな」と、女の横顔を愛しそうに見つめて援護射撃をする。彼はきっと、この世界で一番、彼女の存在が愛おしいのだろう。頼まれもしないのに、彼女の横顔を永遠に見つめていそうだ。

「譲ってやれよ」

善二郎が私に向かって言った。そりゃそうだろうな…と、私も思う。たかがソフトクリームだ。おまけに私達はカップルでも夫婦でもないし。けれど、善二郎がそれを言い出すのは何故かとてつもなく腹が立つ。今この場で強烈な平手打ちをかましてやりたいのと同時に、唇に噛み付いて乱暴にキスしてやりたい意味不明な衝動に駆られた。でも、そんな訳わからん衝動に従う訳にはいかないので、「どうぞ」とカップルに順番を譲る。
カップルの女の方が申し訳なさそうに眉を下げた。男の方が、「よかったな、叶絵」と、彼女に声を掛ける。その一言で、正式に順番が入れ替わった。
私は、もうソフトクリームを食べる気分ではなくなってしまったので、その場で踵を返す。女が一瞬、私を見た。気の強そうな瞳。私も、一瞬だけ女を見た。

――……ありがとうございました。

――……どういたしまして。

視線だけで、私と彼女は確かにそういう会話をした。密かに二人とも微笑む。試合終了、お疲れ様。容姿も、年齢も、職業も関係ない。どんなに沢山の人間を殺した優秀な殺し屋であっても、一般市民とのひっそりした小さな勝負に負けることがある。そういう小さな勝負には、弱い方が勝つのかもしれない。いや、周囲に弱いと思わせた方が。
キッチンカーの前で、相変わらず腕をしつこく絡み合わせているカップルの後ろ姿を一度だけ振り返る。

……次に会ったら、絶対負けない。

気が強そうで、それでいて憎めない見知らぬ女に内心で宣戦布告する。女が振り返った気がしたけれど、私は既に前を向いて歩き出していたから、もう二度と視線は交わらなかった。

「おい。悪かったって」

私の少し後ろを歩きながら、善二郎がまた謝罪してきた。今日の善二郎は謝ってばかり。まるで私がものすごく怒っているみたいだ。怒っている…のだろうか。よくわからなくなってきた。
善二郎が小走りに私の隣に並んで、歩調を合わせてくる。善二郎は私よりもずっと背が高いから、ちょうど私の視線の高さに彼の二の腕があった。
試しに、さっきのカップルを真似て隣を歩く善二郎の腕に自分の腕を絡ませてみた。何らかの動物の交尾みたいに。善二郎が驚いたように私を視線だけで見下ろしてきた。そこで、ふと気付く。もしかしたら、さっき善二郎が言ってた子供が欲しい云々の話は、私が子供を生むって意味だったんだろうか。だとしたら、かなり意味が違ってくる、けど…。確認するように善二郎の横顔を見上げる。煙草を咥えた彼の横顔は機嫌が良さそうだ。

……まあいいや。忘れてくれって言われたし。素直に忘れとこう。


《勝》

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