バランス

真っ白い皿の上、枝豆があとひとつ残っていた。最後のひとつだな…と、短くなった煙草の灰をガラス製の灰皿に落としながら、その枝豆を食べるタイミングを見計らう。手元にある日本酒のグラスはほとんど空になっていた。升の中に置かれたグラス。そのグラスを傾けて残っている日本酒を升の中に注いでいると、向かい側に座っていたナマエが、躊躇なく枝豆を白い指先で摘まんだ。俺が反射的に「あ」と声を上げた頃には、ナマエは摘まんだ枝豆を器用に唇の先で食んでいた。しかし、かろうじて俺の声は届いていたのか、彼女は枝豆を咀嚼しながら怪訝そうに此方に視線を寄越す。その視線が「何?」と問い掛けていたので、俺は空になった枝豆の皿を指差し、弱々しい抗議をした。「最後のひとつだったじゃねぇか」。

「普通、確認するだろ。食べていい?とか」

「食べたよ。いい?」

「それは確認じゃなくて報告だ」

俺の呆れたような不機嫌な口調にも気付かず、ナマエは表情一つ変えずに枝豆の殻を小皿に投げ入れた。俺は溜息を吐いて、ナマエが半分ほど食べ残していた揚げ出し豆腐を箸で突く。冷めた揚げ出し豆腐は衣が出汁を吸ってしまって、ボロボロと崩れ易かった。
そもそも、彼女に細やかな配慮や気遣いを求めたのが間違いだった。俺が不機嫌だろうが上機嫌だろうが、ナマエは何も変わらない。俺の機嫌を伺ったりとか、心配したりとか、そういう繊細な感情自体が彼女には標準装備されていないのだ。もし、俺の友人や知人がこんな女と付き合っていたら「明日にでも別れろ」とアドバイスする程度には傲慢な性格である。そんな女と一緒に居る俺の苦労にも、彼女は気付いてくれていないらしい。バランスが取れねぇじゃねーか、枝豆のひとつくらい寄越せよと言いたくもなる。
ナマエは店員に声を掛けてハイボールのおかわりを注文していた。大衆居酒屋の座敷席はこぢんまりとしていて、2人席だとテーブルも狭い。挙げ句、席と席の間に仕切りも無いので隣席の会話は筒抜けだった。とは言え、居酒屋の喧騒の中では誰も他人の会話など気にしていない。

久し振りに居酒屋で酒でも飲みてぇなと思ったのが、約2時間前。しかし、逃亡生活で金も底を尽きかけていたので諦めようとしていたところ、運良く泥酔したサラリーマンが路上で寝ていた。…ので、ちょっと財布の中身を拝借する事にしたのだ。幸いな事に現金派だったのか、けっこうな金額が入っていた。金を拝借する際には「ちょっと貰うぜ」と声を掛け、サラリーマンからもしっかり鼾で返事をされたので窃盗には当たらない筈だ。そんな臨時収入の結果、今に至る。

「枝豆ひとつでぐだぐだ言わないでよ」

ナマエの酷薄そうな薄い唇から赤い舌が覗き、枝豆の塩っ辛さを拭うかのように上唇を舐め、指先も舐める。湿った赤い舌先。その湿った舌の熱い感触を一瞬思い出したせいで、俺の脳はつい、会話の内容を忘れそうになった。短くなった煙草を何度かふかし、灰皿に押し付ける。思考を立て直す。……ぐだぐだは言ってない。心外だ。枝豆を追加注文するかしないかで軽く揉めそうになっていると、不意に事態が変わった。隣席のカップルが急に深刻な雰囲気になったのだ。女の方が「ねえ。何か忘れてない?」と、尖った口調で連れの男に問い掛けている。途端、ピリッと空気が凍る気配。枝豆を食べるタイミングの重要性をナマエに向かって説こうとしていた俺は、隣席から漂う痛々しい雰囲気に気付いて思わず言葉を飲み込んだ。ナマエもナマエで、俺達の枝豆抗争なんかより、隣席の方がよほど深刻な事態だと察したらしい。視線だけを隣席に向け、それから、肩を竦めた。俺は無意識に、「頑張れ」と、心の中で隣席の男に声援を送る。それまで楽しく飲んでいたにも関わらず、唐突に「何か忘れてない?」という崖っぷちの引っかけ問題を提示されてしまった男には同情せざるを得なかった。
ナマエは何も言わずにハイボールを傾けていた。彼女が内心でカップルのどちらに声援を送っているのかは知らないが、「何か忘れてない?」なんて漠然とした脅迫めいた質問をしてくるような女の味方はしないで欲しいとは思う。
カップルは女の方がまだ若く、20代前半くらいに見えた。所作や服装からは少しばかり幼さが伺える。男の方は若くとも20代後半か、30代前半。男は女の問いがよほど予想外だったらしく、呆けたように空中に視線を彷徨わせた。そして暫く考えた後、

「あ。誕生日……とかだっけ?」

…と、間抜け極まりない答え方をした。
いくら何でもその答えがマズいという事くらい、俺にもわかった。思わず指で眉間を押さえる。そりゃ確かに誕生日が一番確率は高いが、もっと他にいくらでも言い回しはあった筈だ。別に隣席の男は知り合いでも何でもないが、内心で声援を送っていた分だけちょっと情けなくなった。もっと頑張れよ、フラれるぞ。……とは言え、いつまでも隣席の会話を盗み聞きしていても仕方ない。気を取り直し、新しい煙草を口に咥えた時、隣席の女が急に叫んだ。

「初めて手を繋いだ記念日!忘れたの!?」

女の求めていた答えが予想の斜め上どころか歪曲し過ぎていたので、危うく手元のグラスをひっくり返すところだった。それはどんな種類の記念日なんだ。むしろ、記念日と呼べるのか。
ナマエは、まだ僅かに残っていたシーザーサラダのクルトンを箸で摘まもうと躍起になっていたが、女の突飛すぎる怒鳴り声を聞いて少しだけ口の端を緩めて笑ったようだった。どういう種類の笑みなのか判別ができない。嘲笑にも見えるが、愉快そうにも見える。
結局、隣席の女は怒って帰ってしまい、男もそれを追い掛けていった。店内は何事も無かったかのように喧騒が継続していて、カップルの悲劇は無かった事にされる。
それにしても、手を繋いだ日を記念日制定してくる女と一緒に居るなんて、あの男は実はとてつもなく心が広いんじゃないだろうか。そのまま付き合っていたら、初めてキスした記念日だの、初めてセックスした記念日だの、挙句の果てに初めて記念日を祝った記念日まで作ってきそうだ。いくら心の中とは言え、軽々しく頑張れとか言って悪かった。頑張ってたんだな。俺には無理だ。覚えていられない。

「今は記念日もアプリで管理しとく時代だからね。彼女もいちいち自分では覚えてないんじゃない?」

まさか俺の心を読んだ訳では無いだろうが、ナマエが唐突に思いもよらぬ種明かしをした。俺は煙草に火を点けるのも忘れ、呆然と彼女の顔を凝視する。頼んでもいないのに帽子から兎を出す手品を披露された気分だった。兔が欲しいなんて言ってねぇよ。
もしナマエの言う通りなのだとしたら、あまりに一方的かつ不公平な恋愛である。女はアプリで記念日を一括管理。男は逐一日付と曜日を確認し、女の思考回路を予測して記念日を祝う。何なんだ、その試験みたいな恋愛は。

「せちがれぇ時代だな……」

何とも言えない感情が込み上げて思わず呟くと、ナマエは明らかに苦笑いとしか見えない微妙な表情を浮かべた。シーザーサラダのクルトンを口に放り込んで奥歯で噛み砕き、「正しい使い方ではないと思うけどね」と、フォローなのかどうかわからない言葉を付け加える。腑に落ちなかった。…が、淡々と説明するナマエを見ていると、不意に、見ず知らずのカップルの揉め事なんかよりも、よほど気になる疑問が俺の頭に浮かび上がってきた。コイツにも、記念日を記録したり、サプライズを期待したりするような、咳き込むほど甘ったるい時間があったのだろうかと。
ナマエは皿の上に残っているサラダの残骸を箸の先で掻き集めている。俯き加減の顔の角度が変わる度、居酒屋の照明が反射して彼女の黒目にきらきらと人工的な光が射していた。感情が読めない昏い瞳。その無感情な瞳が、記念日だのサプライズだの、そんな薄っぺらい事柄で一喜一憂する姿など想像もできない。何を貰っても、何が起こっても、彼女は喜ばなかったし哀しまなかった。
俺の視線に気付いたのか、ナマエが顔を上げた。目が合うと、彼女は長い睫毛を揺らしてゆっくり瞬きをする。凝視、というよりは観察と表現した方が良い視線だった。夏休みに観察日記をつけられている朝顔はこんな気分なのだろうか。

「後輩から聞いた話だからね?」

観察される朝顔の気分を堪能していた矢先、ナマエが無感情な声で言った。いったい何の話かと思ったが、記念日管理アプリの話だと思い出す。「ああ…」と気の抜けた返事をすると、彼女は口端を緩めて微かに笑った。そんなわけないじゃん、とでも言いたそうな、明らかに小馬鹿にしたような笑みだった。
その笑みを見て、俺は少しばかりの気まずさに襲われる。他人の感情にはとことん鈍感な彼女に気付かれてしまうくらい顔に出ていたらしい。誤魔化すように自分の首の後ろを掌で撫でてから、煙草に火を点ける。…そりゃそうか。記念日を忘れられただけでヒステリーを起こしてしまうような火力を調節できない恋心がナマエに宿るなんて、俺が火事の消火活動に参加するくらい有り得ない事だ。納得するのと同時、お前に後輩なんて居たのかよと、またしても別の疑問が沸き上がる羽目になる。
……どうやら俺は、ナマエが築き上げている人生の一部分すらも知らないらしい。人間関係、趣味、好きな色、好きな花、好きな男のタイプ。多分、見合いの席で初めて顔を合わせた男女よりも、俺達はお互いに関するどうでもいい情報を知らない。いちいち「あのー、ご趣味は?」なんて聞かないからだ。
その代わりに知っているのは、食べ物を口に入れる時にちょっとだけ上唇を舐める癖があるとか、考え事をしている時に瞬きの回数が増えるとか、セックスで絶頂を迎える直前、適度に引き締まった腹筋がきゅっと短く痙攣するとか。つまり、ナマエ自身も知らないであろう事を知っている。恐らくナマエも、俺が知らない俺自身のひっそりした情報を幾つも知っているのだろう。

「善二郎って誕生日あるの?」

敏感な部分を指で探り当てた時にナマエが見せる、微かに怯えた目を思い出していた俺は反応が遅れた。しかも、彼女の口から「誕生日」などという縁遠い単語が飛び出してきたので、ますます混乱する。「…あ?」と、ぶっきらぼうに聞き返すと、彼女は無表情に「誕生日」と繰り返した。機械の音声をリピート再生したかのようだった。

「…そりゃ、あるだろ。お前は俺が生まれて無いと思ってるのか?」

灰皿に煙草の灰を落としながら笑って答えたが、なんとなくナマエの言いたいことは理解した。自分の誕生日を認識しているか、と聞きたいのだろう。もちろん、認識はしている。大人になってから他人に祝われたのは数えるほどだ。最後に祝われたのはいつだったかと記憶を辿り、それが意外と最近だった事を思い出す。「誕生呪い」という誤字が自分で思っていたよりも鮮明に記憶に残っていて可笑しくなった。
ナマエがまた、俺の顔をじっと観察した。そして、何故か納得したように「ふぅん」とだけ頷き、それ以上は何も聞いてこなくなる。俺は日本酒のグラスに映る歪んだ自分の顔を見下ろした。今日は顔に出やすい日なのかもしれない。

「お前は、」

そこまで口に出して、俺は続く言葉を持たない事に気付いた。ナマエの親が誕生日ケーキに蝋燭を立ててくれた訳がないし、コイツに戸籍なんてものがあるかどうかも怪しい。俺が言葉に詰まったので、ナマエが微かに、ふふ…、と小さく笑った。気のせいか、今日はよく笑う。行儀悪く箸の先を舌で舐める彼女の仕草は子供めいているが、酔いのせいで上気した頬と湿った唇だけが奇妙に艶を帯びていた。
ナマエが子供だった頃の姿を、俺はもう思い出せない。思い出してはならない気もしている。何しろ俺の目の前に居るのは、どこからどう見ても完成した大人の女で、遠い昔に「女の子」だった時代があったなんて知りませんよって澄ました顔をしているのだから。それこそ誕生日なんてものを何回もすっ飛ばしてしまったかのように、ナマエは気付けば大人だった。或いは、正しい子供時代というものを知らなかったのかもしれない。

「気になるのか」

「何が?」

「誕生日」

煙を吐き出す合間のついでのように、短く問いかける。ナマエは思案げに何度か瞬きをし、氷がすっかり解け味が限界まで薄まっていそうなハイボールを飲み干してから、「興味はあるかな」と答えた。…なるほど、と腑に落ちる。ナマエは俺の誕生日が気になるのではなく、「誕生日」という記念日の存在自体が不思議なのだろう。生まれてきてくれてありがとう、おめでとう。そんな言葉は、この女の人生においては対極とも言えるのかもしれない。人間の生命を奪う事を生業としていたのだから、当然と言えば当然だ。

「気にすんな。お前はちゃんと生まれてる」

「…意味わかんない」

「お前がアプリで記念日の管理なんて始めたらたまったもんじゃねぇからな」

煙草を灰皿に押し付け、冗談混じりに雰囲気を混ぜっ返す。…が、ナマエが記念日管理アプリに「善二郎が私のアパートと親を燃やした記念日」と記録している様子を想像し、シャレになってねぇなと思った。

+++

湿った夜風が頬を滑っていく。仄かに熱を帯びていた肌が心地良く冷え、程好く酔いの余韻を残した身体に幾らか気分を良くする。歩きながら咥えた煙草に火を灯した。アーケード通りの繁華街は人が疎らだ。昼間はそこそこ賑わっていたのかもしれないが、時刻は既に深夜一時を過ぎている。
ナマエは軽快な足取りで、俺の少し先を歩いていた。ゆったりした足取りの俺は、少しずつ引き離される。ナマエは振り返らない。俺が後ろを付いてくると信じている。このまま俺が追いつかなくてはぐれてしまったらナマエはどうするだろう。彼女も少しは戸惑ったり、迷子になった子供みたいに慌てたりするのだろうか。それは彼女らしくないと思う反面、たまにはそんな一面も見てみたいと思ったりもする。

アーケード街を出て脇道に入り、繁華街の賑やかな灯りからは少し遠ざかった時、明らかに酔っていると思われる若い男達がナマエの行く手を遮った。ナマエが夜道を一人きりで歩いていると思ったのだろう。男達は大仰な身振りで別の方角を指差したり、奇妙に間延びした口調で「カワイイ」を連呼したりしている。彼等はいかにも今時の若者らしい洒落た身形をしていたが、俺には全員が同じようなぼやけた輪郭に見えて、画質の粗いドット絵の映像でも見ているような気分になった。ナマエが無表情に何かを話し、首を横に振る。男達は引き下がらない。ナマエが次第に不機嫌になる。と言っても、その不機嫌のサインは俺にしか判別できない些末な変化だ。そんな不機嫌な表情を見て、俺はやっと、ナマエがナンパされているのだと気付く。
面白かったので、俺はその場に足を止めて傍観する。ナマエは俺と違い、感情に任せて民間人をサクッと殺してしまうほどの見境の無さは持ち合わせていない。殺意を抑えている時のナマエは、どこにでも居る普通の若い女だった。それこそ、酔っ払いが気軽に声を掛けてしまえる程度にはハードルが低い普通の女だ。そんなナマエの様子を遠目に見ていると、舞台役者の立ち回りでも見学しているような錯覚に陥って新鮮な気分になるのと同時、その態とらしさにどこか鼻白む想いもあった。俺も基本的に民間人と揉めることはしないが、我慢もしない。気に入らないなら、その場で直ぐに燃やすか殺すかしてしまう。だが、ナマエは徹底的に我慢して感情を押し殺す。殺すなら目立たないバレない方法で、というのが彼女の信条だ。その正論めいた上品な信条は、俺をたまに苛々させた。
地面に落とした吸殻を爪先で躙りながら新しい煙草を口に咥えていると、ナマエが振り返った。視線を彷徨わせて俺の姿を見付け、此方を指差して男達に何かを言っている。「連れが居る」とでも言ったのだろう。何の準備もしていないのに強引に舞台上に引き摺り出された俺は、煙草に火を点けながら、ぼんやりとナマエを見詰め返して肩を竦める。生憎、女をカッコよく奪い返すような王子様役は引き受けた事が無い。いつも悪者側だ。…まあ、別にナマエも王女様役を望んではないのだろうが。
男達は俺の姿を認識するや否や、先程までのしつこさが嘘のように、ナマエからもナンパという行為からも興味を失ったようだった。さして残念そうでもなく、まるで友人と別れるかのように「じゃーね」とナマエに手を振ってあっさり去っていく。去り際、俺の方には「すんません」と会釈すらしていった。その淡白さと物分かりの良さは、俺の若い頃には持ち合わせていなかった不思議な性質で、ちょっと理解不能だ。

「なんでこんなに離れて歩いてるの」

小走りに俺の傍まで戻って来たナマエが、責めるような口調で言った。あんたが近くに居なかったせいで変な男に絡まれたじゃないかと言わんばかりの驚くべき被害者面だ。勝手に俺を置いて行って、勝手にナンパされた癖に。責任転嫁のプロだな、感心する。コイツに比べれば、さっきの若者達の方がよほど分かりやすくて素直だ。

「なかなかイケメンだったぜ。遊んでくればよかっただろ」

俺は煙草を持っている手で男達が去って行った方向を差し、揶揄うように薄く笑う。闇の中で煙草に灯った小さな火だけが揺らいで、ナマエの黒目に赤い光が反射した。彼女は男達が去った方向を見ようともせず、煙草の火を無感情に見詰めている。きっとナマエにも、男達の顔の区別など付いていなかっただろう。…というより、彼女は興味のないものは認識しようとしない。男達の顔など、メールの顔文字程度にしか見えていなかった筈だ。
俺は、ナマエがナンパに付いて行ったらどうなるのかを試しに想像してみたが、どんなルートを選択しても、男達は最終的にひっそりと死体になった。路地裏で、公園で、ベッドの上で。それはそれで悪くないが、もっと楽しさとか人間らしさが欲しい。

「何か変なこと考えてるでしょ」

「変なことじゃねぇよ。楽しいコトだ」

ナマエの尖った視線を受け流しながら、火火ッ…と声を押し殺して笑う。彼女は俺を一瞥し、踵を返して、また勝手に俺を置いて歩き出した。その場で煙草を燻らせ、俺もナマエの後ろをゆっくり歩き出す。
もし、ナマエから他の男の気配が漂っていたとしても、俺は何とも思わないだろう。コイツがどこで誰と何をしていようが、どうでもいい事だ。礼儀や戯れとして嫉妬するフリくらいはするかもしれないが、所詮、ナマエの表面を通り過ぎていくだけの男など気にもならない。そんな程度で、ナマエの中に在る俺の存在が揺らぐとは思えないからだ。むしろ、その男達のお陰でナマエの人生が少しでも人間らしく華やかになるのであれば、お疲れさんと肩でも叩いて男を労ってやりたいくらいだった。……傲慢な考えだとは思わない。これは、純然たる事実だ。

人気の無い細い十字路に差し掛かった時、足許を根こそぎ攫うような強い風が吹いた。
声が聞こえたのは、その風が去った瞬間だった。…背筋が凍る。足許から這い上がる、懐かしくも悍ましい感覚。俺は十字路の真ん中で立ち止まる。路の傍らに思い出したように備え付けられている街灯だけがやけに明るく、蛾が忙しなく群がっていた。振り返ると、アーケード街の人工的な灯りが遠くに見える。…声が聞こえた。確かに、聞こえたのだ。俺は額に冷や汗が滲むのを自覚した。

──…問題ないと言ったはずだよ、葛西

聞こえる筈が無いのはわかっている。誰にも聞こえていない。俺の脳の中で、壊れた蓄音機が勝手に再生されるかのように、記憶の彼方からその声が響いただけだ。唯一、俺に本物の恐怖を与えた存在。その男、シックスの声。

──…私だけが彼女の「本物」なのだから

何の話をしている。いったい何の話なんだと闇の中を睨み付け、漸く思い出す。シックスが完全に支配していた女の話だ。虚構の舞台ではなく「本物」を与える事で、シックスは魔女と呼ばれる女を支配し、服従させた。シックスは女を駒としか見ていなかっただろう。女はそれを理解した上で、シックスのために死を選んだ。一方的でバランスの悪い関係に見えた。それにしても、何故今、俺はこんな事を思い出しているのだろうか。
……まさか。あの関係と同じだっていうのか。俺とナマエが。
俺は、自分の中に唐突に沸き上がった可能性に戸惑い、そして、恐怖した。シックスが持つ強大な力や知能に尊敬と畏怖の念を抱きこそすれ、同じになりたいとは思わない。俺は怪物や新種になりたい訳じゃない。シックスと同じことをしたい訳じゃない。ナマエを支配したり、虐げたりしたい訳じゃない。
ナマエがふらふらと何処かへ行こうが、他の男に抱かれていようが、俺は気にしない。結局は俺の元に戻ってくるという確信めいたものがある。その部分では、俺とシックスの考えは似通っているかもしれない。……だが、それだけだ。ナマエの傲慢で自分勝手な性格を考えると、むしろ虐げられて苦労しているのは俺の方だろう。俺がナマエを支配しているなんていうのは有り得ないし、これからもそんな事は起こり得ない。その証拠に、アイツは今も、俺を一度も振り返らない。俺が立ち止まっているのに。俺が従順に付いて来ると信じて疑わない。そんな苦労人の俺とシックスが、同じである筈がない。

街灯の青白い光が一瞬途切れる。闇が訪れた。足許から、俺を逃すまいと何かがぞわぞわとせり上がってくる。その何かに追い立てられるように、俺は大股で十字路を突っ切り、ナマエの背中にあっという間に追い付く。気配に気付いたナマエが振り返るより先に、俺より遥かに小さなその背中にのし掛かるように、後ろから彼女の身体を両腕で抱き締め、後頭部に鼻先を埋める。噎せるような女の匂いと煙草の匂いが混在したナマエの髪。腕の中でナマエの緊張した気配が伝わってきたが、それも一瞬の事だった。
ナマエは、「善二郎」と、静かに俺の名前を呼んだきり、それ以上は何も言わなくなった。ナマエの細い腰を抱く俺の腕が微かに震えていた事にも、鼓動がやけに早い事にも、ナマエは気付いていただろう。
俺の指に挟まっている煙草をナマエの細い指がそっと取り上げて、地面に落とす。火が灯った煙草が暗い地面で爆ぜ、赤い火がゆっくり消えていく。その火が完全に消え去る前に、ナマエが爪先で吸殻を踏み付けた。執拗なくらいに何度も。内臓が破裂したカエルの死体みたいにぐずぐずに崩れた煙草の茶色い葉が、風に舞い上がって何処かに消える。その頃には、俺に絡みついていた懐かしい恐怖も消え去って、声も聞こえなくなっていた。それでも俺は、ナマエを抱く腕の力を緩めないまま、彼女の髪に染み込んだ煙草の匂いを吸い込んだ。ナマエは黙ってされるがままになっている。

「お前の誕生日だけどな、」

その言葉を声に出した途端、俺は自分でも何を話そうとしているのかわからなくなった。ナマエも「え?何?」と、聞き返してきたが、俺は構わずに続ける。

「決まってねぇなら、9月1日にしろよ」

決まってるとか決まってないとか、誕生日はそういうもんじゃないだろうと自分でも思った。俺がナマエの誕生日を決めるのも変な話だ。
ナマエは俺の腕に抱かれたまま、顔だけを此方に向けて俺を見上げる。何を考えているのか分からない無感情な昏い瞳が俺をじっと射貫いた。出逢った頃と変わらない、ぽっかりと昏い、穴が空いたような瞳。俺がまだ、本物の恐怖を何も知らなかった頃。

「善二郎がそう言うなら、そうする」

ナマエはそれだけ答えた。そして、電池が切れた人形みたいにだらんと力を抜いて、俺に体重を預ける。俺の腕に、ナマエの重みが一心に掛かる。俺はその重みを受け止めて、またナマエの髪に鼻先を埋めた。安堵と満足感が入り混じった、奇妙に嗜虐的な感情が俺の胸を満たす。
コイツは俺に枝豆ひとつ寄越さない。身勝手に俺を置いていく。俺の話も最後まで聞かない。理不尽な八つ当たりもする。……だが、コイツは平気で俺に人生の全てを預けている。右の門と左の門、どちらが地獄に通じているのか。どちらの門を潜れば天国なのか。その選択を迫られた時、コイツは間違いなく俺に聞くだろう。「ねえ、善二郎。どっちに行けばいい?」と。
俺は、俺達にとって天国となる方を選ぶだけ。そっちはどう見ても地獄だと周りのエキストラが言ったとしても、俺達には知ったことじゃない。

俺達はこれでバランスが取れている。取れている筈だ。…そう、信じたい。



《幕》

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