「わかっていた事だ」

■ジャヴォット

サンドル島の港に立つと、真っ青な海が遠くまで見渡せる。果てが見えない大海原は、世界が遥か遠くまで続いている証だ。それなのに、振り返った港町は製鉄所の巨大な煙突から吐き出される白濁とした煙に覆い尽くされて、鉛色の空が今にも落ちてきそうなほど狭い。この狭苦しい港町を見ていると、海原の向こう側にも世界が続いているなんて信じられなかった。世界は鉛色で、押し潰されそうに狭くて、退廃的。そして、どこか空虚だ。
日が暮れかかった港には、強い潮風が吹き上がっている。もともと風が強く吹き荒れる土地柄ではあるが、港の潮風は少し湿っていて、肌を撫で回すような陰湿さがあった。ジャヴォットは、この潮風がちょっと苦手だ。だから、港にはあまり近付きたくないのだが、今はそんなことも言っていられない。
結局、万国(トットランド)に居るジュールから連絡があったのは、夜が明けてからだった。サンドル島の外に居るジュールと連絡が取れなくなったことなど初めてだったので、ジャヴォットは一晩中気を揉んでいたというのに、ジュール本人は、

「海が荒れてたから船を出すのが遅くなった。夕方頃にはそっちに着く」

……と、電伝虫で最低限の情報を手短に伝えてきただけだった。ジャヴォットが何か問い返す前に強引に通信は切られてしまったので、詳細は何一つわからない。ひとまずジュールが無事だったことには安堵したものの、万国(トットランド)の天候など、サンドル島からでは確認しようも無かった。何しろ万国(トットランド)を抜けるだけでも丸一日かかるし、天候次第で帰りが遅くなることは珍しくない。……そう。天候で帰りの時間が左右されること自体は、珍しくないのだ。だからこそ、ジュールが連絡を疎かにしたことなど一度も無かったのに。
埠頭に立って沖合に目を凝らすが、地平線が延々と続いているだけだ。もう一時間はここでジュールの帰りを待っているが、船はまだ見えない。橙色に染まり始めた空の色が海原に反射して、地平線に細い光が走っている。そろそろ橙色は藍色に変化して、夜がやって来るだろう。
強い潮風が足許に纏わりついてきて気持ち悪い。潮風の執拗さから逃れるように、ジャヴォットは大海原に背を向ける。……と、その時。

「お姉さんも、ジュールさまの船を待ってるの?」

いつからそこに居たのか、一人の少年がジャヴォットに声を掛けてきた。白いTシャツを着て短パンを履いた、10才に満たないくらいの少年だ。埠頭に腰を下ろし、退屈そうに両脚をぶらぶらと揺らしている。ジャヴォットは、すぐに返事ができなかった。あまりにも唐突に少年が目の前に現れたような気がして戸惑ったからなのだが、少年の存在に気付けないほど周りが見えていなかった自分自身にも驚く。

「えっと…、君は誰?」

「ジュールさまの友達」

ジャヴォットの遠慮がちな問いに、少年は迷うことなく答えた。思いもしない答えだったので、ジャヴォットは思わず「友達?」と、少年の言葉を復唱する。その口調に怪訝さが滲み出ていたせいなのか、少年の瞳が不安げに揺れた。

「本当だよ。だって、ジュールさまにカボチャのタルトをあげたもん。お菓子をあげたんだから、ぼくはジュールさまと友達だよ」

少年は早口で必死に捲し立てた。母親に悪戯を咎められて言い訳でもするかのようだ。少年の独自の理論があまりに微笑ましかったので、ジャヴォットは口許を緩める。そして、数ヶ月前にジュールがカボチャのタルトを持ち帰ってきたことを思い出した。あの時、ジュールが「賄賂」という不穏な単語を口にしていたので、てっきり海賊から菓子を受け取ったのだとばかり思い込んで慌てたが、あのタルトはこの少年からのプレゼントだったようだ。ジャヴォットはひっそりと安堵する。ジュールが海賊と必要以上に仲良くしているのではないかと懸念していたが、それは杞憂かもしれない。

「お姉さんは誰?」

「私もジュール様の友達よ」

少年が怪訝そうに問い掛けてきたので、ジャヴォットは咄嗟にそう答えた。「友達」という表現が適切かどうか自信は無い。だが、ドーマント家の「使用人」という複雑な自分の立場を、幼い少年に理解できるように説明する自信はもっと無い。
少年は無遠慮な視線でジャヴォットを頭のてっぺんから爪先まで観察してから、「ふぅん」と気が抜けたような返事をした。「ジュールさまの友達」に相応しいかどうか、少年なりに評価をしようとしたのかもしれない。

「ジュールさまは、海賊とも仲良しなんだよ。知ってた?」

まるで自分の手柄であるかのように、少年は唐突に言った。隠し持っていた玩具を自慢するかのように、こっそりと。しかし、どこか威圧的に。
どうして少年がそんな結論に達するのか理解できず、ジャヴォットは一瞬困惑したが、すぐにひとつの可能性に思い至った。ジュールが毎月万国(トットランド)に出向いてお菓子を届けている行為が、少年にとっては仲良しの儀式に見えているのかもしれない。お菓子を手渡す行為が成立すれば友達関係も成立する。そんな単純明快で平和的な少年の思考を、ジャヴォットは微笑ましく感じた。

「仲良しじゃないと思うわよ。海賊は悪い人たちだから」

ジャヴォットは少年の言葉を柔らかく否定した。幼い子供が遠い世界の悪者に憧れるのは仕方がないことかもしれないが、やはり海賊の存在を安易に肯定することは憚られる。それに、ジュールが万国(トットランド)へお菓子を運んでいるのは
友情の証でも何でもなく、ビッグ・マムからの一方的な要求に応えているだけだ。残念ながら、仲良しとは程遠い。

「えー。でも、オーロールさまは、海賊と仲良しだって言ってたよ」

少年が予想外の反撃をしてきたので、ジャヴォットは完全に不意を突かれた。オーロールの名前が出てきたことにまず驚く。そして、少年の言葉の内容にも。……「海賊と仲良し」だって?そんな馬鹿な。オーロールが、そんなことを言う筈がない。ジャヴォットの動揺を感じ取ったのか、少年は得意気に笑って、視線を海原へ向けた。

「……オーロール様が、本当にそう言ったの?」

ジャヴォットは少年の利発そうな横顔に向かって問い掛けたが、彼はジャヴォットの存在など忘れてしまったかのように、橙色に染まっていく海原だけを見ていた。答えない少年を更に問い詰めるのも大人気ない気がして、ジャヴォットは黙る。少年も、そのまま何も喋らない。我慢比べのような気詰まりな時間がしばらく過ぎて、空が藍色に染まり始めた頃。

「見て!ジュールさまが帰ってきたよ」

少年が、沖合を指差して嬉しそうに声を上げた。つられてジャヴォットも海原に視線を向ける。
藍色に染まっていく空と海の境目に、確かに一隻の帆船が見えた。ゆらゆらと近付いてくるその船は、ジュールが乗っている船に間違いない。その船を視界に捉え、ジャヴォットは一気に安堵する。自分でも、どうしてこんなにジュールのことを心配しているのかよくわからなかった。

「おかえりなさーい」

まだ船はずいぶん遠くにあるのに、少年は大きく手を振って叫んだ。その無邪気な声が港に反芻して、呼応するかのように波が打ち寄せる。海岸線で暗い影のように揺らめいているだけだった帆船は、ゆっくりと近付いてきて、やがて港に船が着港した。貨物輸送に優れたキャラック船。5年前、ジュールの父親であるカラバがわざわざ手配した代物である。荷物を収容する点に優れているこの船を選んだのは、もちろん、毎月、万国(トットランド)へお菓子と武器を運ぶためだ。
着港した船の船室から出てきたジュールは、下船のための梯子を下ろすこともせず、ひらりと甲板から飛び降り、あっさり港に着地した。腕に抱えている紙袋を強い潮風から庇おうとでもするかのように胸の前に引き寄せ、鉛色の髪を邪魔そうに掻き上げる。その姿は、ジャヴォットの目から見ても完璧に美しい青年だった。遠目から見ている分には、ジュールの様子は普段と何も変わらない。美しいのに、退廃的で、どこか疲れたような横顔。それなのに、ジャヴォットは唐突に不安になった。何かが、違うような気がしたのだ。その違和感の正体を突き止めるより先に、少年がジュールの元にいち早く駆け寄る。
足許に纏わり付いてくる少年に気が付いたジュールは、穏やかな笑みを浮かべて少年を見下ろした。少年が、ジュールが腕に抱えている紙袋を指差して小さく首を傾げ、何事かを話しかける。ジュールも、少年に応えて何かを話しているが、ジャヴォットが立っている位置からでは、二人の話し声は聞こえなかった。
海から潮風が吹き上がる度に、ジュールが着ているコートの裾が捲れ、思いがけず華奢な足首が見え隠れする。ジャヴォットはひやりとした。もう日が暮れかけた港にはジャヴォットと少年以外に人影は見当たらないけれど、常日頃から全身に尖った警戒心を張り巡らせているジュールにしては、あまりに短絡的で無防備な姿だ。

「ジュール様、おかえりなさい」

早足に駆け寄って声を掛けると、ジュールは、やっとジャヴォットの存在に気が付いたらしい。たった今深い眠りから目覚めたかのように、何度も瞬きをしてジャヴォットの姿を確認し、そして、ひどく気まずそうに自分の足許に視線を落とした。

「いつから居たんだよ、ジャヴォット」

「ずっと居ました。心配してたんですよ」

「……心配?どうして」

「海が荒れてたんでしょう?違うんですか」

話が噛み合わない。ジャヴォットは怪訝そうに眉を寄せる。足許に視線を落としていたジュールがやっと顔を上げ、「あぁ…、そうか」と、他人事のように呟いて視線を彷徨わせた。どこか夢見るような気配すら漂わせた面差し。嘘の気配。警戒心がごっそりと削ぎ落とされてしまったジュールは、隠し事がとても下手だ。

「ジュールさま。耳、怪我してるよ」

突然、少年がジュールの耳を指差して言った。その瞬間、ジュールの瞳に鋭い警戒心が戻ってくる。ジャヴォットもつられてジュールの耳に視線を向けたが、吹き上がる潮風でジュールの鉛色の髪が舞い上がって、耳をすっぽり隠してしまった。

「痛くない?大丈夫?」

「怪我じゃないから、大丈夫だ」

少年の問いに、ジュールは短く答えた。酷薄そうな薄い唇が緩く吊り上がる。ここではない遥か遠くを見つめているかのような、浮世離れした笑み。下手くそな水墨画みたいにぼんやりとしていたジュールの輪郭が、突如としてくっきり浮かび上がったような気がして、ジャヴォットは怯んだ。
潮風に混じって、どこからか甘い香りが漂ってくる。いったい何の匂いだろうと訝しんだ矢先、ジュールが、ジャヴォットの手に紙袋を押し付けてきた。条件反射で紙袋を受け取ると、いっそう甘い香りが強くなる。いっそ暴力的とすら言えるほどに甘ったるい、強引に食欲を引き出させるような香り。紙袋の中を覗き込むと、チョコレートでコーティングされたドーナツが幾つか入っていた。

「お土産だ」

ジュールが面倒くさそうに吐き捨てる。これで全てを水に流せと言わんばかりの押し付けがましい口調だったので、ジャヴォットは眉を寄せた。

「それ何?ぼくも欲しい」

少年が好奇心に満ちた眼差しでジャヴォットを見上げてきた。どうしようかと迷っているうちに、ジュールが紙袋に手を突っ込み、ドーナツをひとつ取り出して少年に手渡す。少年は弾けんばかりの笑顔を顔に貼り付け、ドーナツとジュールを交互に見詰めた。「お菓子を手渡せば友達」という少年の持論をジュールが知っているのかどうかわからない。だが、二人の間に何かしらの絆が成立した気配がするのは不思議だった。
息を吸い込む度に、くらりと甘ったるい香りが鼻腔に滑り込んでくる。ジャヴォットは恐怖した。サンドル島には、こんなにも暴力的で強引な香りは存在しない。ただのお菓子なのに、なんて危険な香りなのだろう。全く知らない世界の、全く知らない香り。海賊の国から運ばれてきた不穏な香りだ。
少年がドーナツに噛みつく。「おいしい!」と、これまでにないはしゃいだ声を上げる。「そうだろ?」と答えたジュールが誇らしげに笑った途端、ジャヴォットは、ドーナツが入った紙袋を海に投げ捨ててしまいたい衝動に駆られた。恐怖と隣り合わせに湧き上がってくる好奇心が、とても危険なものに感じられたのだ。

「早く帰りましょう。オーロール様も、心配してますよ」

自然に話題を変えたつもりだったが、尖った口調になってしまったかもしれない。ジャヴォットは口許を引き結ぶ。少年が、食べかけのドーナツを口に咥えたままで此方を見上げてきた。突如として現れたオバケでもみるような、驚きと疑問が入り混じった視線だ。

「そうか。疲れたんだけどな…」

ジュールは気怠げに呟いた。その瞳は、またしても遥か遠くを見ている。どこか別の場所。ジャヴォットは不安になった。ジュールが、まだ万国(トットランド)から帰ってきていないような気がしたのだ。何故かはわからないけれど。

「ジュールさまは、海賊と仲良しだよね?」

少年が無邪気に問い掛けたので、ジャヴォットはひやりとした。しかし、ジュールはいつものぼんやりとした曖昧な笑みを浮かべただけだった。「くっ…」と、何かを喉奥に呑み込んだような低い笑い声を漏らして、少年の頭を軽く撫でる。少年は、慣れた様子でジュールのコートの裾を指で摘まんだ。それが合図だったかのように、ジュールが街に向かって歩き出したので、慌ててジャヴォットも付いていく。ジュールはいつも、肝腎なところで自分の言葉を持たない。自分の気持ちを説明する術を、誰かの手で奪われてしまったみたいに。

何度も言う。幼い頃のジュールは、とても優秀な「少年」だった。子供とは思えないほどたくさんの言葉を持ち、時には大人顔負けの反論をした。ドーマント家の長男として期待され、評価されていた。ジャヴォットは、優秀だったその「少年」をよく知っている。何をやっても完璧な少年。周囲の大人たちが大きな期待を寄せる少年が、以前は確かに存在していた。だけどそれは、もう20年も前。ただの昔話だ。

+++

■ドーマント・オーロール

兄妹仲は悪くなかったと思う。幼い頃は、よく二人で遊んだ。誰も覚えていないかもしれないが、製鉄所内の工場に兄妹二人で忍び込んで探検したこともある。兄のジュールはとても聡明で、ドーマント家の長男としても、将来を期待される存在だった。けれど、今はもう、色々なことが違ってしまっている。本当に、色々なことが。

灰色の巨大な建物が連なったその空間は、独特の熱気に満ちている。もう空には星が瞬き始めているというのに、空の彼方まで突き抜けそうなほど高々と聳える煙突からは、街を覆い尽くす原因である鉛色の煙が休むことなく吐き出されていた。
燃える鉄が脈々と流れ出ている溶鉱炉の熱気に耐えかねて、オーロールは目を細めた。製鉄所を訪れるのは久し振りだ。以前は頻繁に訪れていたけれど、銃弾の試作品が完成したと聞かされてからは、一度も訪れていない。最近は、ジュールが製鉄所を訪れることが多かったからだ。
工場内では、若草色の作業着に身を包んだ職人たちが昼夜問わず忙しなく動き回っている。オーロールが工場に入ってきたことに気付いた職人の一人が、軽い会釈をして近付いてきた。

「オーロール様。こんな時間に、どうしたんですか?」

そう問われて初めて、オーロールは、これまで夜間に工場を訪れたことは一度も無かったと気が付いた。オーロールが動くのはいつも昼間で、どちらかというと、夜はジュールの時間帯だ。

「銃弾の試作品が出来たんでしょう?まだ一度も見てなかったから」

答えになっていないような気もしたが、職人は納得したように頷いた。銃弾の試作品が完成してからは、ジュールが何度か工場を訪れていたが、ジュールでは詳しいことを把握できない。だから、職人たちもジュールに対しては態度が冷ややかだ。けれど、オーロールには丁寧な対応をしてくれる。無理もない。これまで、ジュールは銃弾の開発について全く興味を持っていなかったし、難しいことはオーロールに任せてばかりだった。職人たちからの信頼を得られなくても仕方ないだろう。
職人は、わざわざ銃弾の試作品をオーロールの前まで持ってきてくれた。職人が武骨な掌の上に乗せている銃弾は、オーロールが想像していたものよりもずっと大きい。それに、弾芯がきらきらと輝いていて、まるで……、

「飴玉みたい」

……と、思ったままを口にしてしまってから、オーロールは慌てて口を噤んだ。目の前にあるのは、仮にも銃弾である。「飴玉」という甘ったるい表現は不謹慎ではないか。しかし、オーロールの声は、工場内に響き渡る溶鉱炉の機械音に掻き消されたらしい。職人は銃弾の説明を続けた。

「サンドル島で採掘した鉱物を金属に加工して、その金属で弾芯を被甲(ジャケット)しています。通常の弾丸よりも、貫通性がとても高いですよ」

それはまるで、レストランのシェフが「この店はパスタがオススメですよ」とでも言うかのような、気楽な口調だった。殺傷能力が高い武器の説明をしているとは思えない。もしかしたら、職人自身も銃弾の殺傷能力に関しては深く理解できていないのかもしれない。「パーカッションロック式・36口径」に装填して使うのだと職人は言ったが、オーロールが理解できたのは、「大きくて迫力がある綺麗な銃弾」ということだけだった。

「これは試作品でしょう?もうすぐ完成するの?」

思いきって問い掛けると、職人の表情が目に見えて曇った。落胆と戸惑いの表情。周囲で作業をしている職人たちすら、作業の手を止めて溜め息を漏らしたような気がした。

「残念ながら、現在の工場の設備では限界があると思います」

答えながら、職人は申し訳なさそうに肩を落とした。そして、製鉄所の問題点について切々と語り始める。工場の設備が古く、銃弾の強度をこれ以上は高められないこと。製鉄所から吐き出される煙の公害問題が深刻になっていること。そのせいで、職人の人手不足に繋がっていること。有害な煙を取り除くためには、それなりの施設と資金が必要なこと、等々。
ビッグ・マムが銃弾の完成を待ち侘びていることは職人たちもじゅうぶん理解している。だが、彼らは海賊と直接会っている訳ではないから、どこか緊張感に欠けて、のんびりしていた。ただでさえ、サンドル島の人々はおっとりした鷹揚な人柄をしており、武器の製造には向いていないのだ。ビッグ・マムが一方的に「一年以内」という期限を設けたことは職人たちに伝えているが、ビッグ・マムにも海賊にも会ったことがない職人たちは、実感が無いのだろう。このまま銃弾が完成し
なくても、同じような毎日がずっと続いていくと思っているのかもしれない。彼らには、武器を製造するよりも、包丁や農具を作りながら穏やかに暮らす方が合っている。

「オーロール様。耳、怪我してますよ」

突然、職人が話題を変えた。オーロールは咄嗟に自分の耳朶に触れ、柔らかな膚に残った傷を確かめる。職人が不思議そうに首を傾げた。

「痛そうですね。大丈夫ですか」

「怪我じゃないから、大丈夫よ」

銃弾が期限内に完成するかどうかよりも、他人の耳朶の怪我を心配している職人の危機感の無さが可笑しくて、オーロールは苦笑した。サンドル島は、とても平和で穏やかな雰囲気に包まれているが、退廃と諦念の気配にも満ちている。人柄も、空気も、時間の流れも。この島の人々は、同じような毎日を淡々とやり過ごしている。果たしてそれが良いことなのかどうか、オーロールにはわからなかった。
一通り銃弾について説明を終えた職人は、また、オーロールに軽い会釈をしてから作業に戻っていった。去り際に、「霧が出てたので、気を付けて帰って下さいね」と、気遣いの言葉を投げ掛けられたが、早く帰れと言われているような気分になって、オーロールは踵を返して工場の外に出る。既に外は真っ暗だった。細い麓道に立ち止まって、もう一度巨大な溶鉱炉を振り返る。高々と聳え立つ煙突からは、夜になっても鉛色の煙が吐き出されていた。空は煙にすっかり覆われて、星も月も見えない。そのことを、何故か理不尽に感じた。
山から強い風が吹き下ろし、煙突から吐き出される鉛色の煙がじわじわとオーロールの目に染みた。ゆっくりと瞬きを繰り返し、溶鉱炉に背を向ける。製鉄所の煙突から吐き出される煙が有害であることには、オーロールも薄々気が付いていた。その煙は職人たちにまで影響を及ぼし、人手不足になりつつある。それに、工場内の設備も老朽化が進んでいるようだ。このままでは、一年以内どころか、銃弾は永遠に完成しない。ビッグ・マムも何ひとつ納得しないだろう。だからといって、工場を丸ごと建て直せる資金も時間も無い。
飴玉にも似た、どこか滑稽な銃弾を思い起こす。その瞬間、オーロールの脳裡に無謀とも言える解決策が浮かんだ。それは、とても単純な解決策だったけれど、その解決策を実行するのはオーロールの役目ではない。オーロールには、決してできないことだ。ジュールでなければ、できない。外の世界と繋がっている、ジュールでなければ。

この島に必要とされているのは、聡明で慎重なオーロールだと思っていた。誰もがそう思っている筈だ。頭が空っぽのジュールは、なんの役にも立たないと。しかし今、より大きな存在となっているのは、どちらだろう。……そろそろ、本当に落とし前の時期なのかもしれない。

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -