「遠い存在ではない」

■(ドーマント・ジュール)

いったいいつから、未来について考えることを止めてしまったのだろう。幼い頃の自分は、もっと未来に希望を抱いて生きていたような気がする。自分の未来はきらきら輝いていると信じて疑わない、ある意味では平凡な希望に満ちた子供であったように思う。いつからか、ぼんやりと日々をやり過ごすだけの空っぽな生活を選択していた。いや、選択させられたのか。しかし、その選択を信じて疑わなかったのは自分だ。これでいい、と。微かに抱いた違和感にも気が付かない振りをして、何もかも問題は先延ばし。そして、とっくに大人になった今でも。先延ばしにした問題だけが、山積みになって目の前に転がっている。


誰かと目を合わせただけで、腕を掴まれただけで、こんなにも身体と心が昂ることが有り得るなんて知らなかった。掴まれている腕は痺れたように熱いし、心臓は今にも破裂しそうなほど脈打って忙しなく全身に血液を送り出している。どこかに駆け出してしまいたい衝動が最高潮に達する。いっそ衝動に従ってしまえたらどんなに幸せだろう。こういう時、理性はとても邪魔だけど、同時に便利でもある。
熱に溺れた身体を落ち着かせようとして、ジュールは大きく息を吸い込んだ。スイートシティから流れてくる甘ったるい香りが肺まで侵入してくる。片方の腕に抱えた紙袋からは、プリンが作ってくれたドーナツの香り。それらの香りが合わさって、噎せ返るほどの濃密な香りになった。強い潮風が地面を吹き荒れて、アプリコッ湖の水面が音を立てて揺れたから、思わず湖面に視線を移す。空の色をそのまま映し出している湖面は透き通った橙色。まるで、誰かが大量のオレンジジュースを湖に溢してしまったみたいだ。

「このまま帰るつもりか?」

ジュールの腕を掴んだままで男が言ったので、視線を戻す。顔の半分くらいが襟巻きに埋もれて、相変わらず彼の表情の変化はわからない。けれど、ジュールは明確に想像することができた。襟巻きの奥に隠された彼の表情を。シャーロット・カタクリの素顔を。ちょっと自信がなさそうに開いた口。その隙間から覗く鋭い牙。そして、怯えたように、裂けた口をぎゅっ…と引き結ぶ。その挙措を脳裏に思い描いた途端、内臓が捩れるほどの衝動的な感情が込み上げて、ジュールは小さな悲鳴を上げそうになった。愛しい。こんなにも!もうとっくに取り返しがつかないというのに、理性はまだ足掻いて邪魔をする。……会いたかった。それは間違いなく本音なのに、一旦冷静になると、衝動のまま口に出してしまったことを後悔もしていた。

「……帰るよ」

今度は理性に従って、短く答えた。自分で考えて答えたくせに、また、後悔する。どんな言葉を口にしても、後悔ばっかり。本当は、理性も常識も、何もかも邪魔だ。ぐしゃぐしゃに丸めて湖の底にでも投げ捨ててしまいたいのに、今の自分にはできない。金輪際、できそうにない。けれど、カタクリはとっくにそれをやり遂げているようだった。どこか焦れたような、苛立った眼差し。その眼差しに急かされて、ひたすら戸惑う。どうして、と、疑問に思う。どうしてそんなにも、あっさり行動に移せるのだろう。迷わないのだろう。
カタクリが、首を傾いだ。ゆっくりと。心底理解できないとでも言うように。実際、彼は理解できないのだろう。ジュールが何を躊躇して、何を足掻いているのか。
 
「帰りたくないんだろう?」

問い掛けてくる彼の声は、確信と自信に満ちていた。ジュールは、場違いに可笑しくなる。彼の言葉は、あまりに傲慢で、あまりに無邪気だ。幼い子供みたいに希望に満ちていて、彼と自分はこんなにも分かり合えないのだと、現実を目の当たりにした。ああ、やっぱりな…と、微かに落胆する。
海賊という人種を、ジュールはほとんど理解できていない。海賊の存在全てを一括りにしていいとは思っていないが、少なくとも彼等は、これまでジュールが接してきた人種とは全く異なっていた。世間に背いた生き方をしているという意味では、どこか退廃的な気配を纏っているのに、希望を強引に引き寄せる躍動感も持っている。欲しいものは欲しいと素直に口にして、自分の欲望を諦めることをしない。伴うリスクを考えないで突っ走る。そんなにも傲慢で自由な生き方があることを、ジュールは知らなかったし、知ろうともしなかった。それはジュールの人生において大きな衝撃であり、恐怖でもあったけれど、同時に、きらきらと眩い未知の世界でもあったのだ。飛び込んではならない、遠い世界。

「ちゃんと考えたのか?」

またしても、カタクリが問い掛けてくる。彼にはいつも、問われてばかり。求めている答えを得られないから、彼は何度も此方に問い掛けてくる。ジュールは、カタクリとの間に唐突な距離を感じてますます気落ちした。問われれば問われるほど、自分の気持ちを説明する気が失せていく。答えが出ているからといって、必ずしも口に出せる訳ではないのに。どうして彼にはわからないのだろう。
カタクリの大きな掌がジュールの腕を更に強く掴んだ。ジュールは、恐怖と高揚で微かに身動ぎする。……求められている!その実感が、身体全体にじわりと沁み込んで溶けていった。またしても衝動が湧き上がる。今度は、もっとはっきりした具体的な衝動だった。彼に導かれるまま、その腕の中に倒れ込めたらどんなに満たされるだろう。今すぐ彼の腕の中に飛び込んで、彼の顔と感情を隠している襟巻きを乱暴に掴んで引っ剥がし、どんな表情をしているのかを暴いてやりたい。ちょっと怯えた彼の表情を覗き込んで、ほらみろ、お前だって怖がってる!と、勝ち誇って笑ってやりたい。それを想像するだけで愛しさに心臓が震えたけれど、叶わないとわかっていた。
深く息を吸って、噎せ返りそうな甘ったるい香りで肺を満たす。くらくらした。可笑しくもないのに、くっ…と、無意識に喉の奥で低い笑い声が漏れる。その一瞬だけ、何故かカタクリが怯んだのがわかったから、ジュールは意を決して彼の腕を振り払う。思いの外、容易だった。

「ちゃんと考えたよ。冷静になったんだ。お前と違って」

「……どういう意味だ」

「お前もおれも、今は周りが見えてない。きっと、時間が経てばわかる筈だ。これは何かの間違いだったって。そうだろ?」

声を吐き出す度に、肋骨が一本ずつ砕かれていくみたいに苦しくなった。考えても考えても、好き、という結論以外は見当たらないのに、その気持ちを声にできない。彼が好きだ。それは間違いないのに、真っ直ぐ伝えられるほどの無鉄砲さと勇気を自分は持たない。ドーマント家の長男として何とかやり過ごしている日常に波風を立てることが怖い。彼への想いと引き換えに、犠牲にするものが多すぎる。とても臆病だと、わかってはいるけれど。
カタクリの目を真っ直ぐ見ることができなくなって、自分の爪先に視線を落とす。ドーナツが入った紙袋を両腕でぎゅっ…と抱き締めると、鼻腔に乾いた甘い香りが拡がった。あまりの甘さに咳き込みそうになる。

「……そうだな」

低い声で、彼が同意の言葉を紡いだ。その途端、腹の底に鉛を埋め込まれたみたいに、ずしりと全身が重たくなった。不吉な音を立てて、アプリコッ湖の湖面が風で揺れる。心のどこかで、彼が「違う」と否定してくれることを期待していたのだ。けれど、そこまで現実は甘くない。こんなに何度も振り回して、挙げ句の果てにハッキリと突き放してしまったのだから、どんな人間も愛想を尽かすに決まっている。……いや。もしかしたら本当に、彼の気持ちは「何かの間違い」だったのかもしれない…、

「お前の言う通り、時間が経てばどんな情熱も感情も冷めて落ち着くだろう。だが、それは冷静になったんじゃない。ただ、諦めただけだ」

自分の爪先を睨み付けながら、ジュールはカタクリの言葉を聞いた。うまく言葉の意味を噛み砕けない。だが、理解するより先に、鉛が埋まったかのように重たかった身体が軽くなって、その代わりに、疼くような熱が拡がった。

「おれは、諦めようとは思わない。お前と違って」

カタクリがきっぱりとした口調で言い捨てた。どこか責めるような暗さを含んだ声色。ジュールは、自分の身体が幼い子供に戻ってしまったかのような不可思議な感覚に陥る。大きく息を吸い込むと、甘ったるいドーナツの香りが鼻腔から肺まで侵入して、心がざわついた。自分が誰なのか、わからなくなる。男でもないし、女でもないかもしれない。女になることを強制的に中断させられてあっさり諦めてしまった、中途半端な存在。……胸が苦しい。もしかしたら、今、目の前に立っている男は、自分を「未来」へ引きずり戻そうとしているのかもしれない。とうの昔に諦めてしまった、きらきらと輝いていた筈の自分の未来。
ゆっくり視線を上げて、アプリコッ湖に浮かんでいる船を仰ぎ見る。冗談みたいに鮮やかな橙色をした湖面に、これまた冗談みたいに、どんっ…と停泊している大きな船。自分が乗ってきた船である筈なのに、まったく見知らぬ船に見えた。どうやら船室で電伝虫が鳴っているようだ。ジャヴォットに連絡をしていないからだろう。普段なら、お菓子を万国(トットランド)に運び終えたらジャヴォットに連絡している。強制された訳ではないのだが、いつもそうしていた。けれど、今日はしていない。

「本当に、このまま諦めるのか」

カタクリが、再び問い掛けてきた。ジュールは彼に視線を戻す。暗い瞳の奥に宿る情熱が、彼の真剣さをそのまま物語っていた。……きっと、彼が此方の気持ちを問い掛けてくるのはこれが最後だ。拒絶すれば、これで完全に終わるだろう。このまま足の向きを変えて自船に乗り込めば、それで全て終わりにできる。とびきり後悔はするかもしれないけれど、犠牲にするものは少ない筈だ。だけど、どうしても足が動かない。その代わり、心臓は正常な動きを忘れてしまったみたいにコントロールが効かなくて、どくん、どくん…と忙しなく脈打っている。
彼には、ほんの少し未来が視えているのだろうか。この後、二人の間にどんな言葉の遣り取りがあって、どんな関係性になっていくのか。彼は既に知っているのだろうか。それとも、彼も同じように心臓が言うことを聞かなくなっていて、未来を視るどころじゃないのだろうか。そうだったら、どんなにいいか。彼の左胸に触れて、その鼓動を今すぐ確かめたい。もう一度、彼に触れたい。誤魔化しきれないその衝動がはっきり湧き上がって、ジュールは足掻くのをやめた。言葉でどんなに誤魔化しても、もう無理だ。
一歩、彼に近付く。帰ろうとした時はあんなに動かなかった足が、彼に近付こうとした途端、驚くほど簡単に動いて、そのまま、一歩、二歩、距離が縮まる。雲の上を歩いているみたいにふわふわした心地のまま、彼の顔を覆っている襟巻きに手を伸ばして、そっと指をかけた。

「おれは、お前のことがこんなに好きだ。もうじゅうぶん、わかってるだろ?」

カタクリの瞳を見上げて、ジュールは一息に告げた。大切な人に伝える愛の言葉なんてひとつも知らない。誰も教えてくれなかった。だから、彼がくれた言葉をそのまま返す。彼が自分の気持ちを真っ直ぐ伝えてくれたこの言葉は、確実に此方の心を動かしたから、彼の心も動かしてくれるんじゃないだろうか。自分自身の言葉で伝えられないのは情けないけれど、これ以上の言葉を、今はまだ知らない。

「そんなことは、考えなくてもわかっている」

それだけを答え、カタクリは、襟巻きの奥で明らかに溜め息を吐いた。言葉の内容とは裏腹に、安堵と余裕の無さが入り混じった溜め息だ。ジュールは、自分の視界が急激に狭まっていくのを自覚した。視界の全てが彼で塞がれてしまったみたいに、周りの景色も、音も、何も見えないし聞こえなくなる。地面から吹き上げる冷たい潮風も、船室から鳴り響く電伝虫の呼び出し音も、スイートシティの甘い熱気も、今は何も見えないし、感じない。感じるのは、彼の存在と気配だけ。彼の掌がジュールの頬に触れ、そして、指が、顎の線をゆっくりなぞっていく。手袋越しにじわりと伝わってくる熱。愛しさともどかしさで目眩がしそうだ。
幼い頃から長い年月をかけて造られていたものが、あっという間に溶けていく。父親と、周囲の人々の視線によって完璧に造り上げられて完成していた筈の、ドーマント家の長男。その完成品が、月に一度しか会わない、たった一人の男の手によって一瞬で壊されてしまった気がした。もっと奥まで彼に触れたいし、触れられたい。誰の目も気にせず、思う存分。その願望だけが身体の奥底で膨らんで、今にも破裂してしまいそうに熱い。奥で疼く熱をしっかり自覚した時、ジュールはやっと気が付いた。何も難しいことは無い。今の自分は、ただ、一人の女なのだと。

+++

■ジャヴォット

ジャヴォットは、幼い頃からドーマントの屋敷に出入りしていたが、未だに庭の全容を把握していない。巨大な噴水を中心にして幾何学模様に整備されたドーマント家の庭は、どこまで歩いても似たような光景が広がっている。噴水を目指して歩いていれば流石に迷うことは無いが、それでも、もしかしたらまだ、自分が知らない隠された場所がどこかにあるのではないかと疑ってしまう。
屋敷の2階の窓から庭を見下ろすと、高さが中途半端なせいで独特な幾何学模様を把握することはできない。ただ、緑の芝生と垣根がずっと先まで広がっているだけ。
室内の掃除を終えたジャヴォットは、茫洋とした庭の景色から視線を逸らし、カーテンを閉める。ドーマントの屋敷、2階の一番端の部屋。ベッドと箪笥と書斎机以外には、何も余計なものが置かれていないこの部屋は、ジュールの部屋だ。しかし、今は部屋の主は不在である。万国(トットランド)に、お菓子を届けに行っているからだ。それは既に恒例行事となっているので、ジャヴォットもさほどジュールの身を心配してはいない。しかし、ここ最近、別の心配事がジャヴォットの胸に巣食っていた。ビッグ・マム海賊団から銃弾の完成を急かされているらしいこと。ジュール自身にビッグ・マムの娘との縁談話が持ち上がってしまったこと。問題は山積みだったが、それらの問題とはまったく別の、ジュール自身に起きている変化に、ジャヴォットは薄々気が付いていたのだ。長男としての役割を与えられているジュール。その役割を演じることに、無理が生じてきているのではないか。ドーマント家の“秘密”を維持することも、もう限界なのではないだろうか。
サンドル島がビッグ・マム海賊団の縄張りになってから5年が経つが、海賊という存在を、ジャヴォットはよく知らない。有名な海賊団は新聞の見出しを毎日のように騒がしているが、それはどこか遠い世界の御伽話のような気がしている。サンドル島で暮らしているほとんどの人間はそうだろう。海賊に武器とお菓子を提供することで島民の生活は成り立っているのに、島民のほとんどは海賊を目にしたことがないのだ。ビッグ・マム海賊団に献上するための武器とお菓子はジュールが運んでいるので、日常生活において、島民は海賊の存在を全く意識しないで平和に暮らしていられる。しかし、ジュールは毎月、海賊という存在に接しているのだ。海賊の国に足を踏み入れ、ほとんど日常の一部として海賊を受け入れている。その感覚の違いが、ジュールに何かしらの変化をもたらしているのではないか…。

ジャヴォットは、部屋の書斎机の上で眠っている電伝虫と向かい合う。ジュールの船に備え付けてある電伝虫に何度か連絡したのだが、応答は無い。こんな事は初めてだ。万国(トットランド)に行っている間、ジュールはいつでもサンドル島と連絡が取れるようにしている筈だった。それなのに、今回は一度も連絡を寄越さないばかりか、此方からの連絡にも応じない。胸の奥に巣食っている懸念が膨らんでいく。
ジャヴォットは書斎机の上にある電伝虫の受話器を手に取り、ある番号にかけた。一度も使ったことがない番号だ。できれば使いたくないし、使う機会なんて訪れないと思っていた。それは、
万国(トットランド)へと繋がる番号。つまり、ビッグ・マム海賊団に繋がる番号だ。相変わらずジュールからの連絡は無いし、此方からの連絡にも応えてくれないのだから、ビッグ・マム海賊団に直接ジュールの所在を確認するしかない。そう判断しての行動だったが、果たして自分が本当に正しい行動を取っているのかどうかは自信が無い。
電伝虫は「プルル…」と、長いこと呼び出しの鳴き声を発していた。このまま誰も出なければいいと思う反面、早く出てくれと願う気持ちもあって、自分がどれだけ迷っているか思い知る。もう受話器を置いてしまおうか…と、思った矢先。

「はい、こんにちは!」

唐突に呼び出し音が途切れ、受話器の向こう側から溌剌とした女性の声が聞こえた。どこか幼さが残る声。いや、むしろ幼い声だ。女性というより、少女。その声を聞いて、番号を間違えただろうかと、ジャヴォットは慌てた。無法者の海賊の声には聞こえなかったからだ。

「もしもし?こちら、シャーロット・アナナよ。だーれ?」 

受話器の向こう側で少女が名乗った。ジャヴォットは背筋を伸ばす。シャーロット。ビッグ・マムと同じ姓だ。ということは、この少女はビッグ・マムの娘ということになる。信じられないことだが、こんなに幼い少女も海賊団に所属しているのだろうか。だとしたら、恐ろしいことだとジャヴォットは思った。
このまま会話を続けるべきかどうか少し迷ったが、思いきって「サンドル島の者です」とだけ告げてみる。すると、アナナと名乗った少女は突然声を弾ませた。

「サンドル島?……あっ。ジュールのお友達?」

ビッグ・マムの娘であるアナナが、あまりに親しげにジュールの名前を呼んだのでジャヴォットは困惑する。サンドル島では、こんな風にジュールの名前を気軽に口にできる人間はほとんど居ないからだ。ジャヴォットは、見知らぬ少女・アナナのたった一言によって、万国(トットランド)でジュールが海賊たちとどのように接しているのか薄っすらと理解した気がした。きっと、万国でのジュールは、ドーマント家の長男という立場から完全に解放されているのだ。本人も気が付いていないかもしれないけれど。
アナナが「もしもし?聞こえる?」と、言葉を投げ掛けてきたが、ジャヴォットは次に続ける言葉を整理できずにいた。ジュールの所在を尋ねるつもりでいたが、そのための言葉が出てこない。あれこれ思考を巡らせていると、突然、受話器の向こう側が騒がしくなる。「またやってるのか、アナナ!」と、咎めるような男の声が割り込んできたのだ。少し呆れたような、しかし、威圧的な声音。「やめてよ、ペロス兄さま!」と、アナナが反論している。ガタッ…と音がして、受話器の向こう側から聞こえる声が変わった。

「誰だ、お前は」

アナナが「ペロス兄さま」と呼んだ男が、受話器の向こうから呼びかけてきた。耳元で聞こえただけで空気がひやりと冷たくなるような、ジャヴォットが一度も聞いたことがない奇妙な種類の声だ。さほど威圧的な口調ではないのに、相手を怯ませる声音。これが、海賊の声なのだろうか。電伝虫を介しているせいなのか、相手が無法者だという実感は無い。

「ジャヴォットといいます。ジュール様のお世話をしている者です。ジュール様から連絡が無いのですが、何かご存知ありませんか」

不思議なほどすらすらと言葉が出てきたので、ジャヴォットは少し安堵した。自分の声が緊張で震えていたらどうしようかと思ったのだ。怯んでいるとは思われたくないし、少しの隙も見せたくない。ジャヴォットは緊張で身構えたが、電伝虫の向こう側にいる男は、「ああ、あいつか…」と、まるで宝箱を開けたら中身が空っぽだったかのような気の抜けた声を漏らした。今すぐにでも電伝虫の通信を切りたそうな気怠い気配だ。

「ジュールの船、まだアプリコッ湖にあったよ!」

「アナナ、黙ってろ」

アナナの溌剌とした声が再び割り込んで、男がぴしゃりと遮る。ジャヴォットが息を呑んでしまうほど冷たい声音だったけれど、アナナは全く怯まず、「えー、私も話したい」と、少女特有の甘ったるいワガママを口にする。ジャヴォットは急に居心地が悪くなった。受話器を通して聞こえてくる彼等の声が、見知らぬ無法者たちではなく、ただの家族であるような気がしたのだ。懐かしい気配。それは、近隣住居から漂ってくる夕飯の芳しい香りや、幼い兄妹たちが愛らしく言い争う声。とうの昔に忘れてしまった家族の穏やかな気配。

「あいつがどうしてるかなんて知らねェな。帰ったんだろ」

男の投げ遣りな言い草で、ジャヴォットは我に返った。男はとっくに会話に飽きて、強引に通信を切ろうとしているようだ。アナナの言葉を信じるなら、ジュールの船は「アプリコッ湖」という場所に停泊しているらしいが、男がその件について詳細を教えてくれるとは思えなかった。何か隠しているのか、それとも、ただ単に面倒なだけなのか。

「あの。貴方は誰ですか」

反射的にジャヴォットは問い掛けていた。好奇心でも怖いもの見たさでもない。純粋な疑問だった。受話器の向こう側で話している男は誰なのだろう。遠く離れた場所に居る海賊であることは間違いないのに、ジャヴォットが想像していた存在とはあまりに違う。海賊という存在は、もっと薄情で残虐で、自分たちとは全く違う人種なのだと思っていた、けれど……

「ペロスペロー。シャーロット家の、長男だ」

最後にそれだけを言い捨てて、通信は切れた。それと同時に、一気に緊張が溶けてジャヴォットは大きく息を吐く。ジュールの居場所を聞き出すために連絡した筈なのに、ジャヴォットの脳内は軽く混乱していた。相手が「ビッグ・マム海賊団」と名乗らずに、「シャーロット家の長男」と名乗ったからかもしれない。当たり前のことだが、海賊であっても家族は居るし、兄妹姉妹は居るのだろう。それなのに、何かが腑に落ちない。いや、腑に落ちないというより、受け入れたくないのかもしれなかった。彼等も、自分たちと変わらない人間だということを。それほどハッキリした境界線が引かれている訳ではない。この島は、既に海賊の縄張りなのだから。むしろ、彼等はとても、近しいのだ。

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