桃目の物の怪
両親の喧嘩が耐えない家だった。
子供を生めば変わってくれるかと思っていたと母は言っていた。
正直、子供が出来た程度で性格が百八十度変わる人間などいないと、子供ながらに分かった。
父の浮気癖を治せ治せと文句を言い続けていた母は、子供が出来てもその性格を変えなかったのだから。
母親はヒステリックに怒鳴り散らして父に家具を投げつける。
父は暴力で母を迎えうつ。
喧嘩が始まると私は押入れに隠れた。母か父の目に留まったが最後、暴力の餌食にされてしまうからだ。押入れの中で眠り、一夜を過ごした事もある。
私の黒い髪は母に嫌われた。父に良く似ていると嫌われた。嫌われて叩かれた。
私の灰色の目は父に嫌われた。母に良く似ていると嫌われた。嫌われて蹴られた。
私が七つの頃、母はもう耐えられない! と叫んで出て行った。離婚届に判を押させたらしい。役所にたたきつけて姿をくらました。
父は相変わらず女遊びが激しかった。とっかえひっかえ女を変えては家に連れてくる。酒も以前と変わらず飲んでいて、私は押入れに隠れても引きずり出されて殴る蹴るの暴行を受けた。
女と遊ぶのに私が邪魔だと言われた。それは分かっていた。だが私は母と父が大嫌いだったので、出て行ってはやらなかった。
子供一人で生きてはいけないと分かっていたし、施設に入ったとしても、母や父の血が流れている私だ、他の子供に暴力を振るう恐れがある。行くわけにはいかない。
父は……正直、父と呼ぶのも煩わしいそいつは、私に難癖をつけては殴って蹴った。
私の目が嫌いだと、私の目を何度も殴り、床に何度も叩きつけ、放置したこともある。気を失った私はそのまま朝まで転がっていて、気がついた時には左の視界が黒い何かに阻まれていて、ああ、その時目医者にいっていれば失明は免れたのだが……あいつは放置した。
網膜はく離というものをその時知った。左目は使い物にならなくなった。十歳の頃だった。
右腕を何度も蹴られ、踏まれ、骨をおられ、関節を外され、痛みでのた打ち回っているとそれを見て笑われた。右腕は青黒く変色し、私は長袖を着るようになった。夏でも長袖を着ている子供だ、近所で噂が立った。十二歳の頃だった。
虐待されているのではないかと何度も児童相談所が私の家にきた。父はそのたびに追い返し、ちくってんじゃねえ、と私に難癖をつけて暴力を振るった。
左腕に煙草の火を当てられた。熱くて叫ぶと、うるさい、と殴られた。裸にむかれて体の至る所を竹刀で打たれた。
焼けない体が欲しかった。煙草を押し付けられても熱くない、金属で出来た体が欲しかった。
動く右腕が欲しかった。力なく垂れ下がっているだけのこれは邪魔だった。
見える左目が欲しかった。真っ暗なほうから平手が飛んでくるので避けられないからだった。
私は全裸で家から出された。犬の首輪をつけられて、鎖でつながれて玄関に転がされた。
それがきっかけだった。
巡回中の警察官が私を見つけた。父はあっという間に逮捕された。私は家を失い、施設に入れられた。
周りの人間がこぞって私を心配するような口ぶりで、障害児に優しい自分に酔いだした。滑稽だった。私は作り笑いを覚えた。やあやあ心配してくれて有り難うと心にもないことを言った。
作り笑いにも疲れてきたのでマスクをした。口元を隠し、笑っている声だけ出し、大人たちを信じない事にして生きた。
十三の頃から十五まで、中学を卒業するまで施設にいた。誰かを殴ってしまいそうなので、なるべく子供とは関わらないようにしながら施設にいた。
中学を卒業した十五の春に施設を出た。住み込みで働く新聞屋へ就職が決まっていた。
新聞屋には行かなかったが。
施設を出る建前が欲しかっただけで、別に就職などするつもりはなかった。
何をするつもりなのかといえば、死ぬつもりだった。私はその頃から頭が弱かったから、樹海にでもいって首をくくればおしまいだと思っていた。樹海に行きたくて地図を買った。
結構遠かった。
ならば首をくくるだけにしよう。人をやめよう。死骸になろう。人間などやめてしまおう。やめてしまいたい。生まれ変わったら鬼か悪魔にでもなって気ままに生きるのだ。
公園の木にロープをくくりつけたところで眩暈がした。
強い眩暈だった。
立っていられないくらいの強い強い、眩暈だった。
ぎしり、と体が鳴る。
全身に激痛が走った。百六十センチに満たない私の体がみしみしと音を立てる。それがあまりにも痛い。どうした事だろう、これは幼い頃味わった成長痛にも似ている。
痛い痛い痛い!! 体が一気に引き伸ばされる痛み!! みしみし、ぎしぎしと音が鳴る。痛みで意識を失いそうになった直後、眩暈が治まった。
痛みも同時に治まる。意識を飛ばさずに済んだ私が目を開ける。
眩しかった。
空間にいた。
公園で首をくくろうとしていた私は、いつの間にか空間の中にいて、とても眩しい……そう、特に左側が眩しくて。
瞬きをした。
目を閉じるのと同時に明るさが弱まり、瞼を開くのと同時に明るさが戻ってくる。
左目の明るさが。
失明したはずの左目が。
冷静になって見てみれば、そこは部屋のようだった。施設を出たばかりの私はいつの間にか見知らぬ部屋にいて、目の前にはとても小柄な少女がいて。
どういう事だろう、と麻痺している右腕を持ち上げようとして、とても軽い調子で持ち上げられたのに驚いて。
その右腕の形状にも驚いて。
ああ、そうだ、父に似て嫌いだった黒髪も白髪になっていた。
どうした事だと足元に目をやる。魔方陣。知っている。魔法を使う人々がいる事くらい誰でも知っている。私も知っていた。
目の前の少女。十歳くらいだろうか。この子が……いや、この方が、召喚したのか。
私を。
私を。
解放してくれた?
この方が。
ああ。ああ。何という事だ!
焼けない左腕!
動く右腕!
見える左目!
素晴らしい、完璧だ、何という事だ!
その方が口を開く。
私は焦ってしまった。待って。言葉を発するなら私の方からなのに。呼んでくれて有り難うと。救ってくれて有り難うと。
この方は私の神。
この方は私の宝。
そうだ。
この方は。
「姫」
跪き、その尊い手に口付けを落とした。
マスクの上からの口付けだったので、やった後に間抜けな気分になったが、どうでもいいと思った。
姫を見上げて、私は笑う。
四年前の事だ。
「……姫、私を完璧に仕上げてくださって有り難う御座いまする」
「なぁに? 今更」
出会って四年たつ美しい少女。私の姫。私だけの姫。
ああ、なんて素晴らしい。
私に初めて、家族が出来た。
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