切る完
ごきり、と音がした。
鎖に巻かれた千代松の右腕からだ。
昔、修行中に父に組み伏せられ、身動きが取れなかった時のこと。どうすれば状況を打破できるか考えてご覧、と静かに言われた千代松がない知恵を振り絞って導き出した答えがこれだった。
関節を、外す。
すぐに医者が飛んできて関節をはめ直してくれ、父からは“お馬鹿”と頭を叩かれたことも思い出しながら、千代松は勢い良く利き腕を脱臼させた。
ばらり、と鎖が緩くなるのを感じて、左腕だけで体を持ち上げる。
状況を飲み込めなかったのだろうか、体を硬くして一瞬ためらいを見せた見張りに向かって、千代松は左の腕を突き出し、頭を掴み、鉄格子に。
強く打ち付けた。
力が抜けるように崩れ落ちていく男の懐に、無遠慮に手を伸ばす。探し当てたのは、鍵。この牢獄の鍵である。
左腕で不器用ながらも足に絡みつく鎖を取り除いた後、千代松は手にした鍵を遣って檻から脱出した。
ひらめいてから実行するまで、三分とかからなかった。
疾走する。
コンクリートの牢獄は地下にあった。
階段を駆け上がり、見張りについていた男に不意打ちを食らわせる。左腕だけで足をすくい転ばせたあと、無情にも足で踏み抜き気絶させた。
力なく垂れ下がった右腕をつかまれ痛みに悶えかけたが、千代松は思い直す。
「くれてやるよ!!」
「なっ」
無理に腕をひねった。利き腕といえど、動かないのであれば邪魔でしかなかった。
引きちぎる覚悟で無理にねじると、腕を掴んでいた男は千代松の行動にたじろぐ。それを右足で蹴り飛ばし、廊下に集まってきていた謎の男たちを睨みつけてたその時。
「千代松殿は、此方においでですね?」
聞きなれた声を見つけた。
「青鷺殿」
小さく呟き、声のした方向へと足を進める。妨害を受けた。体を強かに打ちつけた。息が詰まったが、今度は意識を手放さなかった。
そう何度も気絶していては家督の候補者の名が廃る。
「ああぁぁぁ!!」
左腕、左足、右足、頭、顎、動かせるものは何でも動かした。
殴り、蹴り、頭突き、噛み付き、投げ、押しのけた。
中々前へは進めなかったが、確実に、着実に、目当ての声の方へ、匂いの方へ足を進めていき。
そして。
「千代松殿!」
手を、伸ばした。
「うーん、暗殺部隊とはいえ、下忍さんばっかりを見張りにつかせたのは失敗だったんじゃないの?」
小首をかしげながら、杏次郎が呟く。
諜報部隊が持ってきた情報を聞いて笑い出した父親は、さて、と腰を上げると気の抜けた着流し姿のまま暗殺部隊まで足を運んだのだ。
「ぼろぼろだねえ、千代」
「……父上の、仕業でしたか」
「うん。自分で暗殺者を退けるくらいしてもらわないと、此方も困るから」
うん。とは随分簡単に言ったものである。
ひきつった笑みを浮かべる千代松の右腕を遠慮なく掴む杏次郎は、いだ!? と悲鳴が上がるのも気にせず無造作に持ち上げ、がちり、と手荒に肩にはめ直していた。
「ひょいひょい関節を外さないの。そうやって簡単に奥の手明かして、対策取られたら不味いでしょ」
「……ご、ごめんなさい」
非常訓練。
杏次郎はそう言った。
これは非常事態に備えての訓練なのだと。
「お馬鹿」
ぺしり、と千代松の頭を叩いて、杏次郎は言った。
「あとで梅千代に見てもらいなさい。腫れてるよ、肩」
「はい……」
側近やお目付け役を何時までもつけておくわけにはいかない。幼児ではないのだから、自分で自分の身を守る必要がある。
出来れば全ての危険を自力で回避して欲しかったところだが、青鷺が動きすぎたように思う。彼が千代松を助けてしまったのは、幸か不幸か。
「六十点って所だねえ」
杏次郎が笑って言った。
「及第点は、如何程ですか」
千代松が恐る恐る尋ねると、杏次郎は娘兼息子の頭を撫でながら、穏やかに告げた。
「五十点」
「ぎりぎり……!」
「お父さんは修行では手を抜かないって知ってるでしょ?」
にこにこと微笑む父に逆らえるほど、千代松は命知らずではなかった。
にこやかな父の恐ろしい訓練は、ひとまず幕を下ろした。
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