切る2
目を覚ました千代松が見たのは、見知らぬ床だった。
畳敷きが常の犬島家ではない、コンクリートだ。
後頭部を殴打されたのだろう、ずきりと痛むそこに手を当てようとして、重たい腕にようやく気付いた。
じゃらりと嫌な音を立ててすれるのは、紛うことなき鎖。
手枷足枷をはめられ、目の前には鉄格子。
「ここは……」
月並みな言葉が口をついて出た。
かつ、と硬い音が響く。
コンクリートを踏みしめる革靴が、千代松を閉じ込めている鉄格子の前で止まった。
「随分と簡単に捕らえられたものだな」
仮面で隠されて顔は見えない。
ボイスチェンジャーで低く篭ったものに変えられた声が嘲笑する。
千代松はむっとしたが、事実であるので黙っていた。
「家督を継ぐ者として恥ずかしいと思わないか」
鼻で笑う謎の人物。
家督。
その言葉に、千代松は人物を見た。
「犬島の者か」
「貴様に教える必要はない」
図星だろう。
家督を諦めさせるために、誰かが画策したのだ。
またか。
千代松は息をついて、謎の人物を見上げた。コンクリート床に座り込んでいる千代松と、立っている人物。顔を見ようとすれば必然的に見上げる形になった。
背丈は千代松とそれ程変わらないだろう。
体の線は女にしてはがたいが良く、男と見るならやや細身といった所だ。
「何を考えている?」
細身の男(と千代松は見る事にしたようだ)が尋ねてくるのに、百七十五センチの犬の精霊はじゃり、と鎖を鳴らす。
壁に繋がれた手と足の枷を力任せに引っ張り、仮面の男に向かって走り出した。
「ぐっ!」
びん、と張った鎖が千代松の動きを封じる。
しかし止まらない。もがいて、無理矢理前に進もうと力を込める。
「力任せに動いたところで、好転はしないと思わないか」
男が鼻で笑う。
ゆるやかに小首をかしげ、千代松を見ていた。
「うあ、ああぁぁ!」
男に向かって腕を突き出す千代松を優雅に見つめながら、何処か見とれているようにも取れる男は呟く。
「もう少し頭を使わないか、千代松殿」
「千代松がいない?」
杏次郎が茶を啜りながら首を傾げる。
部下の男は頭を下げ、報告を続けた。
「四方を探したのですが……そのお姿は形も御座いません」
「八方は探したの?」
「……目下捜索中で御座います」
「そう、無理しないように探してね」
羊羹を口に運びながら穏やかに微笑む杏次郎に、部下の男は頭を下げた。瞬時に姿を消した部下を見ながら、杏次郎も腰を上げる。
「僕も探そうかな」
青鷺はいつも通りの犬島家を歩いていた。
千代松がいない、という事だけを除いた犬島家を。
後継者の候補の姿が見えないことはちらほらと話題に上っていたが、千代松を後継者に推薦している陣営の者はそこに漬け込まれないようにと平静を装っていた。
ぐるぐるとした疑心が渦巻く屋敷を歩く青鷺。
何の痕跡もなく姿を消した千代松を思い、彼はある場所を目指していた。
「うああぁ、あぁぁぁあ!!」
みしり、と壁が軋む音がして、細身の男は焦りを見せた。
嫌に力持ちだとは聞いていたが、まさか壁にひびを入れるほどとは。
力任せに突っ込んでくる千代松を見つめながら、男は呟いた。
「この力、使いようによっては厄介かも知れないな」
壁のひびが少しずつ大きくなっていく。
鎖をつなぎとめる金具が歪んでいく。
鎖がぎゃりぎゃりと悲鳴をあげ、ついに千切れた。
「ああぁぁぁっ!!」
叫び声を上げながら男に殴りかかる千代松。
男は。
避けなかった。
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