〜完〜
「……ジックタック、ヂックトック」
酒菜が名を呼べば、二尾の魚が目を開ける。
赤と紫、どちらも斑な魚である。
骸骨に取り囲まれた釘一家の父はしかし冷静で。
魚は主人を守るように口を開く。
紡がれるのは、心霊を慰める歌だった。
「♪私のお墓の前で」
「♪泣かないで下さい」
それかよ。
其処に私はいません、と魚たちが歌っていくたびに骸骨の群れが戸惑っていく。
魂を清められ戦う事をためらっているのか、単に選曲のセンスに困っているのかは定かでないが、動きは一様に緩慢だった。
「ちょっと失礼致します、ご婦人方」
骸骨の性別分かるのかよ。
酒菜が動きの緩い骨を押しのけてマチルダに近づいていく。
マチルダはといえば、薄く笑みを浮かべているだけだった。
「マチルダさん、お話があります」
「カーシング・アシッド」
酒菜が吹き飛ばされる。
すっかり剥がれ落ちた壁に強かに打ちつけられた父を泣きそうな目で見るボックを、仲が悪い筈のデュンケルが珍しく庇っていた。
何かの成分のような呪文を口にしたマチルダは骸骨を睨みつける。
妬みと恨みの念力で再び動き出した呪いの骸は、魚たちの歌に動じる事がなくなっていた。
がちゃがちゃと音を立てて倒れる鮭菜に詰め寄っていく。
酒菜は身動き一つしなかった。
白く鋭い指先が肌に突き立てられる
のを
魚が噛み付いて防いでいる。
酸で溶けた服を正し、するりと、気持ち悪いほど滑らかに立ち上がった酒菜は何事もなかったかのように口を開いた。
「マチルダさん、お話があります」
かつて偶然という名の不幸に振り回された魔女は、今、必然という名の不幸に直面していた。
妬み嫉みを呪いとして攻め込んだ先にいるのは妹の家族たち。
自分の敵は妹たち。
誰一人味方もなく、手下とて忠誠心から動いているのではなく。
孤独に塗れた必然に立ち尽くし、ただ目の前の幸福たちを恨むしか出来ない必然。
力ずくで壊そうとしたのだ。
不幸と向かい合った結果、破壊を選んだのだ。
それでも破壊できなかった。
自分の体を心を黒く染め上げた恨み辛みは精神を食い破りはしても目の前の嫌な物全てを何一つ壊してはくれなかった。
酸をかけられても顔色を変えない妹一家の大黒柱が近づいてくる。
もう一度同じ言葉を呟けば大黒柱は軽々と吹っ飛び、服は無残にも溶けていった。
転がった妹の婿は立ち上がる。
反撃など一切せずにただ近づいてくる。
もう一度。
もう一度。
もう一度。
何度アシッドをかけようが、結果は同じだった。
火傷のような傷を負っても、服が何の役にも立たない布切れになっても、釘酒菜は魔女に手を上げない。
釘酒菜は、魔女を攻撃しない。
「お話が、あります。貴女の、幸福についてです。何年かかるか分かりませんが、話し合いたいのです」
「何年もどうやって話すというのだ? 馬鹿者が。いつまでも此処でたむろしているのか、貴様らは」
マチルダが鼻で笑うが、酒菜は酸で爛れた手でマチルダの手を握る。
迷いなく手を自分の胸に当て、ためらうマチルダを確りと見る。
釘酒菜はこれをするためだけに、義理の姉を追いかけていたのだった。
「何年もかけて話し合いましょう。我が家に帰って、何年も」
帰ってこいと。
戻って来いと。
正気に戻れと。
酒菜はまっすぐな視線で、真っ直ぐな道をただ示す。
妬むべきものなど何も無い。
嫉むべき敵など何処にもいない。
「貴女も、大切な家族ですから」
魔女は拒んだ。
煩い煩い煩いと喚いた。
独りよがりで逆恨みだったなんて認めたくない魔女は、善を掲げた酒菜を拒絶したかった。
涙が出てきた。
今まで自分は妹に奪われてきたとばかり思っていたのに、その妹が自分を抱き締めている。
自分には幸福が来ないとばかり感じていたのに、妹の旦那が自分を支えている。
煩い黙れと泣き叫んだ。
泣き叫んでもがいた先には何も無いと分かっていても、悲しくて寂しかった心を幸せに浸す度胸など無いから。
金切り声を上げて泣いた先に何があるのかは知らないが、もう、涙を止めることが出来なかった。
「お帰りなさい」
帰ってきなさい。
よく帰ってきてくれた。
二つの意味を持つ声が、嫉妬から無理に引き剥がされた魔女を包んでいた。
← →