観察者は何処だ
もしも、この世界が試験管の中のものだったとしたら。
私たちが、ミクロな存在であるとしたら。
宇宙というのは巨大な人類が作り出した、四畳半の部屋一個分に過ぎない実験装置だとしたら。
私たちは独自に発展と繋栄を繰り返してきたと思い込んでいるが、それが人間の実験により生み出されたものだとしたら。
私たちは人間ではなく、試験管の中の人、フラスコの中の人、俗に言うホムンクルスだとしたら。
空想が止まらないが、これが空想である保障はどこにもない。
私は人間であるはずだが、私が、私たちが人間ではない保証もどこにもない。
本当の人間にとって、私たちの存在は爪の先1ミリにも満たない微生物であるのだ。
その微生物たちが人間ぶって、人間の思考を真似して争うのだ。
微生物たちが、自分たちより小さな極微生物たちの研究をするのだ。
そうでない保障がない。
それが堪らなく恐ろしいが、同時に、堪らなく甘美なのだ。
全ては、全てが死んだ後に分かるだけ。
全てが死ぬのにあと何十億年。
私たちがそう思っているだけで、大きい人間にとっては、あと何十年。