居酒屋から出ると、雨だった。

菅野ががっかりした顔になる。
「予報アテになんないですね」
「そうだね」
3月の小雨。
雪に変わりそうな秋田の雨。
寒い。

「傘買います?」
菅野が前方に見えるコンビニを指差す。
杉浦は首を横に振った。
「あそこに着く前にずぶ濡れになるよ。どうせ濡れるなら、歩いて帰ろ」
「そうですね」
営業所からは程遠い店舗。
明日もイベントで応援部隊。
数字は明日中に乗り越えられそうだ。
だから、気持ちに余裕がある。

「酔いが醒めちゃうなぁ」
菅野が笑う。
菅野はいつも笑っている。
笑顔が初期値なのに、少しでも自分に笑顔が足りないと感じたら、即座に最も菅野らしい顔を作る。
笑顔。
顔の筋肉が発達している。
自分の笑顔がどれだけ強力で効果的なのかを良く知っている。

冷たい雨の中でも、歯を出して笑う。
いい顔するなぁ。
杉浦は羨ましくなる。

菅野と言う後輩はとても可愛い。
仕事が出来る。
真面目だし、冗談もわかる。
自分を道化にして数字を上げる事も厭わない。
芯がある。
だから何をしていても、菅野らしい、で事が済む。

羨ましい、そう感じる。

自分は凡庸だ。
普通すぎる程普通だ。
当たり前の事を当たり前の様にするしか出来ない。
それが自分にとっての一番の近道だと思っている。
思っていた。

菅野と組んでから、少しずつ菅野の影響を受けて、変わりつつある。
菅野に引きずられている。
それは、嫌ではない。
心地好いと感じている。

ホテルまで徒歩10分弱だろう。
着いたらすぐにシャワーを浴びよう。
替えのスーツも持ってきて正解だった。
そんな事を考えていたら、菅野が歩みを止めた。

「どうしたの」
問い掛けると、菅野はあの大きな目で杉浦を見つめていた。
不思議な目だ。
キラキラしていて、見つめられると胸の真ん中が痛くなる。
女性にモテるんだろうな、とボンヤリと思う。
自分でもなんとなくドキドキするのに、女性なら菅野くんに見られたら恋に落ちるんだろうな。
「どうしたー菅野くん」
もう一度聞いた。
菅野は何故か不思議そうに小さく首を傾げる。
本当に、理解出来ない、と言った風に。

「僕達、ちょっと前に、キスしましたねぇ杉浦さん」

忘年会の罰ゲームの事だ。

「あー…忘れようよー菅野くん…それはさー、あんなのさ」
「忘れてるんですか、杉浦さん」
「忘れるよー。菅野くんも忘れてよー。あの時菅野くんも、ウケるからしただけでしょ」
「…それもありますけど。でも僕は忘れてないんですよね」
「…なんで?」

聞いてしまった。

「なんでって。なんでって…杉浦さん。僕、誤解の無い様に言っておきたいんですけど」
「うん」
菅野が見つめている。
いつの間にか、笑ってはいない。
真剣な表情。
真っ直ぐに杉浦を見ている。
恥ずかしくなって、視線を菅野の足元に向けてしまった。
これから、何が始まるのか、知っている様な気がする。
菅野が何を言うのか、自分は知っている様な気がする。

「僕は…僕には妻と子供がいるんです」
「知ってるよ」
「で、杉浦さんにも奥さんがいる」
「そうだよ」
「それも踏まえて、なんですけれど」
「うん」

言うな。
言うなそれ以上。
菅野くん。
言わない方がいい。
そこから先は、言わないでくれ。

「それでも僕は杉浦さんと、またキスしたい」
「何言ってんの菅野くん」
間髪入れずに。
余りにも慌てすぎて、後半を掻き消してしまった。
何も聞いてない。聞こえてない。

「何も聞こえなかったよかんちゃん」
「ならもう一度言います」
「かんちゃん」
「杉浦さん、僕を見て下さい。ちゃんと。ちゃんと僕の目を見て下さい」
杉浦は、視線を上げた。
菅野の視線とぶつかった。

もう、逸らせない。
菅野は少し怒ったような表情をしている。
こんな顔は初めて見た。

もう、駄目だった。

「菅野くん」
「なんですか」
「後悔とかするんだよ、きっと」
「そうかな。今行動しないで後悔するより、僕は行動してからする後悔の方がマシだと思ってます。何もしないなんてゼロだ」
「マイナスに動いても?」
「絶対値。動くなら、プラスでもマイナスでも。それに」
「それに?」
「僕と杉浦さんなら、僕らなら、必ずプラスに出来ると思ってます」

杉浦は覚悟を決めた。

菅野の手を掴んだ。
引っ張り、路地裏に入る。
雨。
小雨。
秋田の、今にも雪に変わりそうな冷たい雨。
菅野の手は冷え切っている。
自分の指も冷たい。

ビルとビルの間で、掴んだ菅野の手をもう一度引っ張ると、菅野は簡単に杉浦の胸元に体を預けた。

小さい。
本当に、自分よりも随分小さいんだな。
そう思った。

菅野の両頬に触れる。
顔も小さい。
目が。
大きくて。
杉浦をじっと見ている。

静かに口づける。
冷たい唇。
啄む様に何度も。
何度も菅野に口づけて。
それから、舌を。
中は暖かく、さっき二人で飲んだ酒の味や匂いを感じた。
菅野は杉浦が包む両手を、支える様に掴んでいる。
その指先が寒さで震えていた。

体の中が熱くなる。
外気はこんなに冷えているのに。
何度も深くキスをして、菅野を確かめた。
菅野も杉浦を確かめていた。

唇を離し、菅野を抱きしめた。

「…戻れなくなったよ」
「構いませんよ」

強く抱きしめた。
抱きしめあった。

戻れない。

戻らない。
前だけしか、無い。

寒いはずだと思った。
菅野が震えるはずだ。

雪に変わった。


20090621完




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