相反-Вопреки-
俺のバタフライが小さく一度だけ震えた。
画面には「マサトシのおっちゃん」の表示。
通話の要請だ。
アプリを立ち上げ、呼び出しを受ける。
おっちゃんの声。
この一ヶ月、何度も聞いた優しい声。
顔はまだ見た事が無い。
きっと、丸顔の気のいいおじさん。
『おー、ミナトくん起きとった?』
「うん、寝てないよ。まだ寝ないよ」
『せやろー。起きとる思て掛けたってん。何しとった?』
「ぼんやりしてた。おっちゃんから来ないかなって思ってたよ」
『ホンマあ?ホンマやったら僕嬉しいわ。疲れも吹っ飛ぶわ』
「ホンマだよ。おっちゃん今仕事終わったの?」
『仕事ちゅーか飲みやなあ。会社のな』
「みんなで行ったの?」
『んーん、ちゃうよ。部下の男の子と。二人や』
「二人かあ」
『ヤキモチやいてくれてんのかミナトくん』
「そんなんじゃなくて。二人でどんな話するのかなって思って。仕事の話するんでしょ。難しそーな。俺、マトモに働いた事あんま無いからわかんないけど」
嫉妬みたいな気持ちはあんまり感じなかった。
遠くの人だし。
おっちゃんはきっと、親戚がやってる会社か工場任されてて、ゲイなのに結婚させられて、今は離婚して奥さんいなくて、小さな息子と二人暮し。
いい人だから色んな事を断れなくてここまで来ちゃったんだろうな。
そんな風に想像してた。
勝手に。
おっちゃんは自分の話を殆どしてくれなかったし、あんまり聞いて欲しくも無い感じだから、俺も深く追及したりはしなかった。
俺も、自分の事はあんまり言いたく無かったし。
ただ、暇な時間が多すぎて、嫌な事を思い出したりする夜が怖くて、いつも、毎晩、おっちゃんからのコンタクトを待ち侘びてた。
それは事実。
本当に俺は、会話が出来る相手に飢えていて、たまたまマサトシのおっちゃんがとんでもなく親切で優しくて、それに甘えていたいと思っていた。
おっちゃんが続ける。
『半分半分やなあ。後半殆ど子供の話しとったわ』
「ん?男の子って言ったよね」
『僕から見たら男の子やわ。でもまあ、そやな、ミナトくんから見たらあの子もオッサンやろな。ミナトくんより10は上やろし』
なら30代中盤と言った所か。
『その子な、ちいちゃいナリして子供三人もこさえてなあ、よう頑張っとるよ。頑張り過ぎかもしらん。もうちょい気ぃ抜いてもえんちゃうか思てまうんよ。そや、その子も秋田の子や』
「そうなんだ」
少しだけ、ほんの少しだけヒデキを連想してしまった。
ヒデキの子供は二人だった筈だ。
奥さんと子供が大好きなヒデキ。
ヒデキ、働いてるかな。マトモな就職出来てるかな。
してくれてるといいな。
笑っていてくれたらいい。
『ほんなんで、寝る前にミナトくんの声聞かせてもらお思てな。クールダウンや』
「うん、うん。嬉しい。ありがとおっちゃん」
それからしばらく、どうでもいいような話題で盛り上がった。
おっちゃんはゲームが好きで、俺がゲーム機持ってないって話をしたら驚いてた。
バタフライで出来る面白そうなゲームをいくつか教えて貰った。
好きなタイプの話もした。
俺は特に無いよって答えた。
本当は頭の隅っこにヒデキの俯いたつまんなさそうな顔が浮かんだりもしてたけど、おっちゃんには、俺に優しくしてくれる人は好きだって言った。
おっちゃんは可愛い顔の若い子が好きなんだって言ってたから、つい笑ってしまった。
「若いって、どれくらい?」
『若かったら若い程ええなー。あんましな、こう、体格ええのは昔からそんなに好かん。そやなあ、僕より背ぇ高いんとマッチョはそな好かん』
おっちゃんは誰かを思い浮かべているようだった。
会社の人とかかな。
「おっちゃんは身長どれくらい?」
『質問する時は自分から先言うもんやで』
「俺?俺結構高い方かも。おっちゃんより大きかったらごめんね。178」
『おー、ギリギリOKや!僕180あるからね』
あれ。
思ってたより大きい。
もうちょっと小柄なぷくぷく体型だと思い込んでた。
『ミナトくんの顔見たいわ。送って』
「写真写り悪いから嫌だよ。おっちゃんのも見た事ないし」
上手に笑えないから、無表情の顔を見られたくないから、送った事は無かった。
アプリの自分のアイコンは、おばあちゃん猫にしていた。
『僕なんかただのおっちゃんや、おもんないよ』
「見たいのになあ」
『先ミナトくんやろ』
「えー。やだよ恥ずかしいもん」
『僕も恥ずかしいよ』
そんな、なんて事ない会話を、日付が変わってからも少しして、その日は通話を終えた。
なんて事ない日々が終わりを告げようとしていたのを、俺はまだ気がついてなくて。
いつまでも、ずっと、何もしないで、南国の民家の片隅で、少しでも涼しい場所を見つけて、猫と一緒にバタフライで遊んでいられるんだと思っていた。
体は寝てたのに、頭、と言うよりも耳だけが起きてた。
居間から声が聞こえてくる。
チアキの声だ。
泣いてるのかな。
「お兄ちゃんばっかり!」
俺の事か。
なんだろう。
嫌だな。
俺の事でチアキは怒ってんのか。
なんだろう、嫌だな。
親父の声。
「したってチアキ、仕方ねーべ。兄ちゃんいっぱい頑張ってけたんだがら。それで体壊したんだがら、少しぐれ兄ちゃんだっていい思いしたっていいべしゃ」
謝るような親父の声。
嫌だな。
あんな声聞きたくない。
かーちゃんの声。
「チアキも働いてるんだから、欲しい物があったら自分で買ってもいいんだよ」
申し訳なさそうな声。
嫌だ。嫌だ。
あんな声はもう聞きたくないんだ。
チアキが叫んでる。
「誰なの!おばあちゃんなの?お兄ちゃんにバタフライ買ってあげたの!チアキ、高校入ってもバイトして自分の携帯代払ってたよ!?大学だって行きたかったよ!全部我慢したよ!?したのに!もっと服だって欲しかったし、友達と色んなことしたかったよ!我慢してきたんだよ!?お兄ちゃんばっかり!働かないで!バタフライも買ってもらって!」
違うよチアキ。
これは、俺が自分で働いて稼いだお金で買ったバタフライだよ。
知らないおっさんのチンコ咥えて、知らないお兄さんにケツ貸して、知らないおじいちゃんのケツ掘って、俺が稼いだ金だよ。
チアキ、そんな事出来ないだろ?させないし、兄ちゃんが。
バタフライ、もう一台くらい買ってあげてもいいよ。
買ってあげてもいいんだ。
でもこの金が何なのかを言いたくないんだ。
ごめんチアキ。
きっと、この金の出所を聞かれる。
ホストクラブで稼いだんだって親父達には言ってたけど、そんなのと比べられないくらい稼いだんだ。
何を言っても信じてもらえそうにない。
嘘をつけるくらい元気になれたらいいけど、俺まだそこまで頭回んない。
薬が効いててよくわからない。
うっかり正直に言ってしまえばどうなるんだろう。
言いたい。
言いたいし、言いたくない。
きっと追い出される。
追い出されても行くところなんて無い。
ここで静かにしてるから、お願いだから、もうちょっとだけでいいから。
俺をこのままにしておいて欲しいんだ。
ほんの少しの希望に縋ってるんだ。
毎日、毎晩、少しだけ、少しずつ、俺はもがいて、なんとか明日も生きてみようと思ってるんだ。
今は蛹みたいな物なんだ。
動かさないで欲しいんだ。
必ず羽化するから。
蝶になるから。なりたいから。
おっちゃん。助けて。
『ミナトくんしゃきっとせな。若いんやからね』
バタフライからおっちゃんの声が聞こえてくる。幻聴だ。
引き戸が開いた。
逆光の、多分かーちゃん。
多分かーちゃんは、かーちゃんそっくりの声で俺を呼んだ。
「ヒロキ、起きてるなら、ちょっと居間においで」
嫌だ。行きたくない。
誰にも会いたくない。
ここにいる。俺はここにいる。
俺をここから連れ出さないで。お願い。壊れる。蛹なんだから。動かしたら。
落としたら、形が崩れて、蝶になれない。
遠くからおばあちゃんの声が聞こえてきた。
「猫おらんねん。どこ行ったんやろ。昨日までヒロキの部屋におったんじょ」
猫を探さなきゃ。
そう思って俺は寝返りを打った。
多分かーちゃんなそれと、目が合った。
光の無い黒い暗い瞳。
きっと俺もおんなじ目をしてたと思う。
20120816 続く
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