記憶-Хранение-


軽く酒を飲み、食事を済ませ、コンビニで幾つかの食料や飲料を買い求め、またタクシーを拾った。

行き先を告げた時、運転手は特に何の反応も示さなかった。
ありがたいと思う。

郊外のデートホテルに着くまで、車内は静かだった。
妙な緊張感。
菅野は無言ではあったが、その右側に座った杉浦の手をずっと握っていたし、きっと運転手はそれをバックミラーで視認していた筈だ。
そして杉浦は流れて行く窓の景色を眺めるふりをし続けた。

「ああ言うのを、優しいとか、気遣いが出来る人って言うんですよねー!」

部屋に入るなり、菅野は清々しげに大きな声で言った。
さっきの運転手の事だろう。
行き先を聞いた時と最後の支払いの時に料金を告げただけで、あとはずっと口を噤んでいてくれた。

「今頃無線で仲間と噂されてるとか」
「まさかまさか!コンプライアンス!タクシー会社だって乗客の話はしちゃ駄目でしょ!」
「そうだけどさ」
「あの運転手さんで良かったじゃないですか。アレコレ尋ねられても困ったでしょ?」
「君は困らなさそうだけどね……」
「はい、僕きっと全部ぶっちゃけちゃうかもです。僕の彼氏かっこいいでしょっつって、チューとかなんとかしちゃうかも」
「やめてよかんちゃん」
「あ、さっきの人、明日の朝も迎えに頼んだら良かったですよね?」
「夜勤でしょ。僕らが帰る頃にはあの人、仕事終わってるんじゃないかな」
「タクシーもお疲れ様なお仕事ですよねえ」

うんうん、と頷きながらバスルームへ向かう菅野の後ろ姿を見送る。

杉浦はソファーに腰掛けた。柔らかくて体ごと沈む。

ふと思い出す。
菅野に聞こえるように声を出した。

「かんちゃんも確か二種、持ってたよねえ?」

二種免許。

持っているのは知っているが、ならばどうしてあんなにも菅野の運転技術は雑で荒々しいのだろう。
不思議だ。性格か。

バスルームから菅野が戻ってくる。

「はい、持ってますよ。クビになったらいつでもタクシー会社に履歴書持って行けます」

そんな状況は想像出来ない。
今や菅野無しの東北エルデータ・マエデン販路は考えられない。
もし間違えてエルデータが菅野を手放したとしても、マエデン本部が黙ってないだろう。
菅野が販路を移る事があったとして。その後継になるのが自分になるとも思えない。

菅野の背中が遠い。

「杉浦さーん。眠い?ボンヤリして。イタズラしちゃいますよ?」
菅野が杉浦の目前で掌を振る。
定まらない自分の焦点。

「愛媛香川高知徳島、それから仙台。お疲れ様です。眠い?寝てもいいですよ」
「……寝かせてくれないじゃないか」
「うん。僕勝手に弄くり倒して遊んでますから」
「ダメだよ」
「どうして?」
「僕が君にいたずらするんだから」

菅野の両手首を捉まえる。
力強く引き寄せると、菅野は崩れるようにして杉浦の胸元にやってきた。

「『嫌だわスギサマったら。疲れマラって奴ね!イイわよイイわよー!』」
「タケちゃんの真似かい?やめてくれよ……」
いかにも竹中が言いそうな台詞に苦笑する。
杉浦の腕の中で、顔を埋めたままの菅野が小さく身悶えした。笑っているのだ。

「杉浦さんの方が上手ですもんね、竹中さんの真似。じゃあこれは?『じゃあー今夜は杉浦さんの上でシャカリキ動いて頑張っちゃいますでーす!』」
「それは秋山ちゃん……」
「正解!」
「秋山そんな事言わないでしょ」
「そうかな?言いそうですよ?」
「言ったの?」
「あのねぇ杉浦さん。僕どんだけですかね。秋山さんとなんか寝ないよ。誰とも寝ないよ俺。杉浦さんだけだよ」

奥方は?
と言いたい所をぐっと堪えた。

それにしても菅野の「俺」を久しぶりに聞いた気がする。
甘えるように杉浦の胸に額を擦り付ける。
妻が飼っている猫を思い出した。

風呂。
そろそろ満杯になっている頃合いかと思い、菅野に声を掛けようとした。

「杉浦さんてさ」
菅野が見上げて来た。
大きな瞳に視点を合わせるのが恥ずかしくなる。反らす。菅野の肩付近に視線を落とす。
苦し紛れに抱き締めてみる。

「杉浦さんてさ、僕より6つ上でしたっけ」
「うん、そうだったと思う」
「じゃあ日本海中部地震の時って高校生?中学生?」
「ん?ああ。えっとね、あの時は僕、中学生だったよ。三年生」
「僕は小学生です。四年生」

改めて年齢差を感じた。

成人してから先は、特に就職してから先は、年齢そのものよりも肩書きの方が自分にとってよっぽど重要になっていたが。

子供の頃の6歳差は、とんでもなく大きい。

「小坂も揺れた?」
「ん、うん。あの時ってあんだけ離れてた盛岡で震度4だったからね。内陸部でも相当揺れたよね」
「何してました?」
「あの時?授業終わりかけで、昼になる時だったよね。体育の授業で外にいたよ」

記憶を掘り起こす。
30年近く前の話だ。
風化しつつある過去。

「……グラウンドで……サッカーしてたんだ。僕はキーパーで、でもボールは全然回って来なくて暇でさ、遊びの延長みたいな授業でさ。僕はゴールポストの前で欠伸してたよ」
「ゴールポスト」
「うん。そろそろ昼だなって思って校舎の時計を見上げたらさ、変なんだ。眩暈して。グラグラする、って。眩暈なんかじゃ無くて地震だったんだよね」
「うん、そんな感じでしたね」
「体育の先生がね、叫んだんだ。『杉浦走れ!』って。当時僕は陸上部の練習に参加させられてて……走れって叫ばれたからね、条件反射でダッシュしたんだよね。そしたらすぐに後ろでゴールポストが倒れた」
「うわ。嫌だな。怖いんですけど」
「うん、その時はね『おー!セーフセーフ!』くらいにしか思わなかったんだけど、揺れが治まって、校舎にいた他の学年の子や先生たちがグラウンドに避難してきたんだよね。女子なんかは泣いてる子もいたし、男子はなんだろ、テンション上がっちゃったって言うのかな、妙に騒いでね。教室に戻ってから友達にさ、『スギさっきすげーピンチだったよな』って言われてからやっと気がついたよ。僕危なかったんだって」
「先生に感謝ですね」
「本当だね。そういやお礼言ってないや。元気かなあの先生」

あの頃既に今の自分と同じくらいの年齢だったように思う。
教師はもう引退しているだろう。

腕の中で黙って話を聞いていた菅野が姿勢を変えた。
杉浦が菅野を背中から抱きしめるような形で座る。
菅野の表情が見えない。
菅野の首筋に自分の鼻をくっつける様にしてみる。

日中の菅野を思い出した。
ビル内、小さな揺れで体を硬直させていた。
菅野らしくない、と感じていた。
質問を返してみる。

「由利はどうだったの?」
「……揺れました。うん、揺れた。震度3くらいなのかな。図書館にいました。なんだっけな。テレビ見せられてて。視聴覚室開いてなかったのかなぁ。番組が終わって、先生が教室に戻るぞって言って、座ってた席から立ち上がったらね、うるさくなった」
「うるさくなった?」
「ええ。うるさいなって思った、最初。クラスの皆が大きな足音鳴らしてんなあって。そしたら本が崩れて。多分すぐに机の下に潜ったと思いますけど、そこら辺は記憶が曖昧だな。あんまり覚えてないです。あんな大きな地震、はじめてだったし」
「そうだよねぇ」
「怖かったですよね」
「うん。余震もあったしね。あの映像もね、怖かったよねアレ」
「噴水のでしょ。怖かったですよね。繰り返すんだもん。ボールに入った水が毀れるみたいな、あんなに揺れたんだって。気持ち悪くなった。でもねー、僕が地震怖いのはね」

菅野が素直に「地震が怖い」と言った事に、杉浦は少しだけ驚く。
菅野のこの性格ならば、そう言った恐怖心については隠すだろうと思ったからだ。
だが、今日の昼のあの表情を見られてからでは遅いのだろう。
隠す必要も無いと判断されたのか。

「……僕、男鹿の報道が怖くて」
「ああ、合川南小学校」

遠足で男鹿市を訪れていた、当時の北秋田郡合川南小学校5年生の児童達と教師が津波に襲われた。

日本海側では津波は発生しない、と言われ続けていた事が結果悲劇に繋がった。
児童13名が死亡した。

「亡くなった彼らは、生きていれば僕より一つ年上です」
「そうなんだ。……そうかぁ……」
「僕の小学校もね、毎年五年生になったら男鹿へ遠足に行くコースだったんですよね。僕も楽しみにしてました。海大好きだし。でも男鹿って聞いただけで怖くなって。結構大人になるまで男鹿方面行くの嫌でしたよ。さすがに克服したけどさ。でも地震そのものはまだちょっと、苦手です」

時の流れの速さにもまた驚く。
あの津波で命を落とした子供達は、菅野よりも一つ年上。原田店勤務の辺見・竹中より一つ年下。
そんなにも時間が過ぎて行っていたのか。

「秋山さんなんか生まれてるかな?まだかな。まあ確実に宮川くんの生まれる前の話ですよ」
「そうかぁ……」
いつになく低く静かに声を発する菅野が頼りなさげで、杉浦はもう一度菅野を抱きしめてみせる。
菅野が笑った。
ニヤニヤではなく、ニタニタでもニコニコでもなく、珍しい、吐息の様な笑う声。

「杉浦さんが抱えて逃げてくれるんでしょ?」
「うん。心配しなくていいよ」
「奥さんと僕だったら?」
「大丈夫だよ。二人とも小さくて軽いから両方抱えて逃げる」
「あれ?うろたえない。杉浦さんらしくないなぁ。前までなら『そういう質問やめてよかんちゃん』って言う所なのに」
「うん。二人とも抱っことおんぶしてくよ」
「強欲だなー杉浦さんは。じゃあもし今、セックス中なら?」
「その時は裸で抱えて逃げるよ」
「僕を抱えて?」
「うん。全然平気だよ」
「嘘だなー。その時は杉浦さん、きっと僕を置いて逃げますよ。ちゃっかり軽くバスローブ羽織ってさ。バタフライもしっかり握ってさ。僕よりバタフライの方が大事なんですよ杉浦さんなんて」
「酷い言い草だなあ。信用されてないんだねえ……」
「お互い様です」

背後から菅野の肩に顔を埋める杉浦の頭を、菅野は優しく撫でた。

その時が来たら、体が勝手に動くんだ。きっと。
そんなの今はわからない。考えたってわからない。
でも出来たら、かんちゃんを置いてく自分ではいたくないと思ってるよ。

伝えたかったが、言葉にはしなかった。
守れないかもしれない約束はするべきでは無かった。

「風呂入りますか」
「そうだね」
「僕汗臭いでしょー。杉浦さんばっかりいい匂いさせてズルいですよ」
「そんな事無い。かんちゃんの匂い、好きだよ」
「あはは、やらしーなー」

実際杉浦は、菅野の体からほんの少しだけ香水の香りを感じていた。
朝、出掛けにつけた物が残っていたのだろう。

それは何故か紅茶の香りを連想させた。


20120810 続く
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