依栖、と一言呟いて、唾を吐く。
また走り出す。

登りきり、外に出る。
強い風が吹いた。
圭の眼前にパリの夜景が放射状に広がる。

「さすがや。早いなぁ。仕事に無駄が無いわ。見習わなな、堀」
「しやなぁ有士」

圭の前後から二人の声が聞こえた。
夜景に一人のシルエットが浮かぶ。
両腕を前に突き出している。
銃を二丁構えている。
背中にも二つの銃口を感じた。
目が慣れてきた。

「なんや。歯茎とクチビルやんけ」

圭は言った。
後ろから堀が44マグナムの銃口を背中に強く押し付ける。

「だぁっとれや。速攻殺してええねんで」
「よぉそんな口きけんな。依栖が聞いたらしばかれるで」

圭は落ち着いている。
正体が判れば不安は消える。
依栖の行方だけが気になる。

「兄貴の方がどないなってんのか教えたろか」

有士が言う。
圭は答えない。

「不安やねんやろ。兄貴おれへんかったらなんもできへん子やもんぁ、圭ちゃんは」

煽ろうという魂胆か。
切れるタイミングを失ってしまった圭は動じない。
大丈夫だ。

「ゆうとくけどもぉ兄貴には会われへんで。近距離で肩撃ってセーヌ川にぶち込んだったからなぁ。ちょお堀、パリにも鯉とか鮒とかおるんか」
「おるんちゃうか。今頃ブッサい顔突付かれとるんちゃう」

圭は思わず吹き出してしまう。

「依栖もジブンもどっこいやで」
「黙っとれクソシャクレがぁ」

背中に強く銃口を押し付けられる。
正面からも有士の44マグナムが二つこちらを向いている。
逃げられるか。

堀が叫んだ。

「有士、山口がどないなってんのかゆうたれやぁ!」

有士が睨みつけるように圭を見た。

「蓑山と山口がどないなったか知らんやろ。教えたる」

瞬間、圭は最後に山口に会った日を思い出す。

「おどれがな、あの時山口を殺したったら良かったんじゃ。なんで殺さへんかってん」

そう言った有士の声は、涙混じりだった。圭は少し狼狽する。

「お前ら殺れへんかったから、あいつら、どな仕事してるか想像つくかオイ」

圭は身構えた。聞きたくないと思った。

「あいつら児童担当にならされてんで」

児童担当。12歳未満の標的専門の暗殺班。

「ガキ殺してんねんで。クソや。最低や。お前が要らん事するから、あいつら地獄見てんねん。初めて赤ん坊殺した時なぁ、山本…やまも…」

有士は泣き崩れた。膝をつく。

「…山口…蓑山になぁ…殺してくれって…泣いて…泣いて…見てられへんかった…」
「有士、立て。後はコイツだけや。山口に首持ってったろ」

堀が言うと、有士はゆっくりと立ち上がった。
顔を圭に向ける。

「死ねや」

4丁の銃口が一斉に圭に向いた。
銃声。
圭の視界ギリギリに、鮮血と脳漿が飛び散る。
真横を、頭の吹き飛んだ堀が倒れこむ。

「堀!」

有士が駆け寄ろうとした時。

「動くな。堀みたなりたないやろ」

圭は振り向いた。
ずぶ濡れの依栖が立っていた。左肩から出血している。

「依栖…」
「あかんな圭。甘いねん。基本的に。おい有士、逃げてもええねんで」
「逃げるかぁボケが!」

有士の44マグナムが依栖の方に向けられた。

「甘いねんて」

依栖の冷たい声。
弾丸が真っ直ぐに有士の右目を貫いた。
膝から崩れる。
前に倒れこむ。
後頭部が跡形も無い。

圭は背筋が冷たくなるのを感じた。

「依栖…お前」

依栖に走り寄る。
身体を抱えるようにして肩を押さえる。

「お前残して死なれへん」

依栖はそう言うと圭の肩に頭を傾けた。
息が荒い。
苦しそうに呼吸をしている。

二人きりや。

圭はパリの夜空を見上げた。
世界で、二人きりなのだ。誰も味方ではない。

「歩けるか、依栖」
「…任せとけ。お前途中でゲロ吐いとったやろ。あかんで公共物にんなもんしたら。滑りそうになったわ」
「そんだけ喋れたら大したもんや。行くで。腕貸せ」

依栖の右腕を自分の肩に回す。
腰を支える。
歩く。
踊り場から螺旋階段を見下ろす。

「お前、どんな地獄でもええてゆうたよな」

圭が言うと、依栖は小さく頷いた。

今見ているこの光景が、地獄の入り口なのだろうと圭は思った。


20100203加筆修正、完

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