その時は、とにかく走る事に夢中で、妖精の出る幕はなかった。
今は余裕がある。
この時間を楽しむ余裕がある。
妖精はぶううんと羽音をならせて俺の周りで舞い踊っている。

とても可愛らしい。
この妖精たちは存在しない。
俺のイカれた脳味噌が勝手に作った玩具だ。
しかし皆はこの可愛い妖精を目にする事が出来なくて可哀相だとも思う。


拓也ちゃんの神様の姿が、俺には見えないのと同じくらい、それは可哀相な事だった。
俺の妖精は、俺が病院に着くまで引っ付いてきた。
俺は病院の外来玄関から堂々と入って、看護士たちに特に気づかれることなく病棟に戻って来た。

そのまま真っ直ぐ、自分の住んでる二〇三号室ではなく、拓也ちゃんの寝ている二〇五号室に向かった。
そこは俺が午前中にぶち壊した窓ガラスの破片がまだ散らばって、リノリウムの白い床の上にキラキラした輝きを与えていた。
二〇五号室の患者たちは、一緒に脱走したカオル兄さんと眠り姫の拓也ちゃん以外が、全員俺の顔を見て一声に騒ぎ出した。
これではすぐ捕まってしまう。

寝ている拓也ちゃんのベッドに近寄って、シゲの写真を拓也ちゃんの顔の前に持って来た。

「シゲくんだよ。拓也ちゃん。シゲくんだよ。王子様だよ」

シゲ、という名前を聞いても拓也ちゃんは反応しなかった。
拓也ちゃんの視線は写真を通り越して遠く部屋の隅に向かっている。
像を結ばない。
俺は不安になった。

俺はなんでシゲの写真なんか必要としたんだっけ。

拓也ちゃんに元気になってほしいからだっけ?
拓也ちゃんと友達だったからだっけ?
拓也ちゃん?
拓也ちゃん?
…拓也ちゃん?

俺は拓也ちゃんの肩をつかんで揺さぶった。

「拓也ちゃん、起きて。起きて、ほら、シゲくんだよ。シゲくんに会ってきたの。シゲくん、拓也ちゃんの事待ってたよ。元気にしてるかって、聞いてたよ。拓也ちゃん、目を覚まして」 

既に妖精は消えていた。

その代わりに神様が何かをいいたげに気配を漂わせていた。
託宣が下る。
もうすぐ。
的確なアドバイスをしてくれよ、神様。



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