病気



 ナツさんに護衛されて数日が経った。
 あれから、私たちは当たり障りのない会話をするだけでお互い相手を詮索するような話はしていない。少し寂しい気もするけれど、余計な詮索はナツさんの仕事にも支障を来すと思ったからだ。


「ナマエ様」
「え?」
「……新聞、逆様ですよ」


 そうナツさんに言われハッと我に返る。手元の新聞は確かに上下逆様で、慌てて元に戻した。ナツさんはいつものようにクスクス笑っている。それをじろりと睨むとナツさんはゴホンとひとつ咳をして、そそくさと簡易キッチンに引っ込んでいった。
 お湯を沸かす音が聞こえる。多分、コーヒーを淹れてくれるのだろう。どこまで気が利く男なんだろうか、そんなことを思いながら新聞に目を移した。新聞の文字を見ようとするけれど、何故か文字がぼやけているように見える。心なしか頭がボーッとしてきて、私は新聞を読むのを止めて椅子にもたれ掛かった。


「ナマエ様、コーヒーで…ナマエ様?」
「…あ、ありがとうございます、そこに…」
「…顔色が悪いですね。大丈夫ですか?」


 ナツさんが心配そうな声色で私の顔を覗き込んでくる。彼を見上げれば仮面の奥の赤い瞳と目が合って、慌てて顔を逸らした。


「ちょっと、疲れただけですよ」
「……少し失礼しますね」
「え?」


 その言葉に目線を彼に向けると、籠手を外して手を露出し出している。カチャカチャ、という金属音が部屋に響くなか、私は疑問符を浮かべた。何ゆえ籠手なんて外す必要があるのだろうか。
 やがて片方の籠手を外したナツさんは私の傍に寄ってくる。何をするつもりなのかと眉を顰める私に、ナツさんの手がゆっくりと顔目掛けて伸びてきた。思わず目を瞑ってしまう。その手が額に触れる。


「…やっぱり」
「へ?」
「熱、ありますね。しかも相当高いですよ」
「ね、熱?」


 あぁ、だから頭がボーッとするのかと納得する。熱を出したことなんてここに来てから一度もなかったのに、なんで今更熱なんか出るのだろう。しかもこんなときに。
 とりあえず熱があるならベッドに横になろうと思うけれど、体が思うように力が入らない。自力で立てないほど弱っていることに情けなく思っていると、ふわっと少し風を感じた。
 背中と足の膝裏に、違和感を覚える。そして目の前にいるナツさんに私は目を見開いた。


「よっ、と」
「えっ!?いや、あのっ!なな、何してるんですか!?」
「体に力が入らないんでしょう?俺が運びますよ」
「いい、いいです、自分で歩けますからー!!」
「いやもう持っちゃったし。ったく、病人は大人しくしてください」


 そう言うナツさんに言葉を詰まらせる。何気にタメ口で話したのが衝撃的だった。
 運ばれている途中、ちらりとナツさんを見上げる。当然だが仮面で顔は見えない。ふと、ナツさんがこの間言った言葉が脳裏を過った。

 『俺の素顔を見たいならナマエ様が俺の仮面を取ってください』

 もし、私がナツさんの素顔が見たくて仮面を外してしまったら。その行為をしてしまえばきっと、元には戻れなくなる。いや、その行為をするしないの前にもう元には戻れないだろう。素顔を見ても見なくても、"彼"という人間に私は惹かれ始めていた。
 私の視線に気付いたのかナツさんの顔が私に向く。赤い瞳と目が合って、今度こそ逸らさずにじっと見つめた。
 ナツさんの瞳が少しだけ見開く。顔が熱くなってくるのを感じながら、それでも視線を逸らさずにいると、彼の方から顔を逸らした。
 寝室の扉を開けて、彼は私をゆっくりベッドに下ろす。掛け布団をかけてくれるナツさんにお礼を言うと、口角をあげて微笑んでくれた。


「もうすぐ夕餉ですが、食欲はありますか?」
「…お腹、あんまり減ってません」
「ですが何かお腹に入れておかないと、良くなるものも良くならないですよ」


 そう言ってナツさんが私の額を撫でる。その優しい手つきに顔が熱くなってきて、掛け布団を鼻のところまで上げた。彼の一挙一動にいちいち反応してしまう自分が情けなかった。
 少しだけ冷えているナツさんの手が心地好くて、眠気が襲ってくる。段々瞼が重くなってきて、彼もそれに気付いたのか額からゆっくり手を離した。
 待って、行かないで。


「……行きませんよ、どこにも」
「え…?」


 ナツさんの言葉に眉を顰める。彼は苦笑を浮かべながら口を開いた。


「無意識に声出てましたよ」
「えぇっ…!?」


 また無意識に出ていたのか。恥ずかしくて頭に血が上る。本格的にクラクラしてきて、目をぎゅっと瞑り片手をナツさんに突き出した。
 ナツさんがどんな表情をしているかはわからない。どこにも行かないと言うのなら、態度で示せと私なりに考えた結果がこれだ。我ながら可愛いげがない。


「手、を」
「はい」
「握っててくれませんか…?」
「…わかりました」


 突き出した手に、少しだけ冷えた手が重なる。それは間違いなくナツさんの手で、きゅっと手を緩く握ると、それに応えるように彼の手に力が入った。
 彼との繋がりに嬉しさが込み上げる。それと同時に安心感でいっぱいになり、私はそのまま意識を手放した。


「おやすみ、ナマエ」


 そう呟いたナツさんの声は、完全に寝入っていない脳髄にしっかりと響いた。


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